平和と祈りのための能楽公演2022

山本 佳誌枝|山本能楽堂マネージャー

私たちは当初、2021年の夏、欧州文化首都ティミショアラ2021で能楽の公演を行う予定でした。しかし残念なことに、世界的なパンデミックにより、私たちの計画は余儀なく中止となりました。世界中で新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、劇場やホールが閉鎖され、文化・芸術を享受する機会が失われ、芸術文化活動が停滞してしまう異常な事態が続きました。私共・山本能楽堂も例外ではなく、厳しい状況が今なお続いていますが、他の舞台芸術の関係者と連携を行いながら「文化の灯を消してはいけない」という思いで、2年間、できる限り活動を継続してきました。そして、世界規模の災禍がようやく少し落ち着いたと思った矢先、ロシアのウクライナ侵攻により、世界の状況が悪化してしまいました。

コロナ禍におけるこの数年間、私は文化、特に舞台芸術が社会に向けて果たすべき役割について考えてきました。これまで実施してきた海外公演についても、改めてその内容を分析する時間を持つことができました。650年前から途切れることなく演じられ、伝え続けられてきた能は、人間の普遍的な感情を表現し、いつの時代にも変わることのない人間の本質が描かれています。日本古来の神事に近い芸能として守られてきた能楽は、1)死者の魂を鎮魂する 2)悪を退治する 3)平和と繁栄を祈る の3つの要素を持ちます。そして、能はいつの時代においても、人々の心を癒し、精神的な安らぎを与えてきました。コロナ禍の未来が見えない不安定な社会の中で、私は、能こそが、疲弊した世界の人々の心を癒し、希望を取り戻すことができる力を持っていると再認識しました。そして、能が持つこの普遍的な価値観を広め、能の力を世界で役立てたいと強く思うようになりました 。

これまでの海外公演では、バルカン半島を中心に行ってきた経緯があり、コロナ禍でもオンラインで公演を配信するなど、現地との関係性を深めてきたので、コロナ禍後の最初の海外公演はルーマニアで行いたいと思いました。主な目的は、1)日本と世界の文化交流を再開させ、相互理解を促進すること、2)能楽の真髄をわかりやすく世界の人々に伝えその価値観を心の癒しのために役立てること 3)2023年の大規模公演(延期された欧州文化首都ティミショアラ2021)に向けた準備ならびに環境作りをすること、でした。

Akihiro Yamamoto conducting the Noh workshop at the Students’ Cultural House©︎Yamamoto Noh Theater

コロナ禍後の新しい時代に即した海外公演の形式を試みるため、今回の公演では、最小限の出演者・スタッフで最大の効果を生むよう、新しい能楽公演の形式に挑戦しました。何度もミーティングを重ねた結果、能が伝統的な舞台芸術でありながら、現在もなお「生きた芸能」として魅力を放つことを、体感できる形式を完成させることができました。それは、能の歴史的・文化的意義や倫理的観念、美的機能性を伝えることに主眼をおいたもので、従来の能楽鑑賞のスタイルとは異なるものです。通常、能楽を楽しむためには、事前にある程度の予備知識が必要とされますが、海外公演では、観客が能について事前学習することは困難であるため、観客が能を楽しみながら同時に能についての知識を学べるよう取り組みました。この形式であれば、初めて能を見た人でも、能の本質をその場で楽しむことが出来ます。そして、コロナ禍後の、新しい上演形式では、1)タイプの異なる能のハイライト部分を連続して上演する、2)観客がリアルタイムで理解できる美意識の高い字幕の開発、3)重要な表現手段には説明をつける、ことを試みました。

今回、ティミショアラでの初めての能の公演は、この新しい上演形式によって、大きな成功を収めることができ、来年の本公演に向けて大きな手応えを感じました。終演後の多くの観客から、笑顔で素晴らしかった、また見たい、といった言葉をかけて頂いたことは、何よりの嬉しいプレゼントでした。また、会場となったティミショアラ国立劇場は、長い歴史を持つ、ユネスコ世界無形文化遺産の能楽に最もふさわしい舞台として現地から提案され、劇場側の非常に好意的な協力体制も、公演の成功に欠かせないものでした。

Akihiro Yamamoto preparing for the role of Tamura©︎Yamamoto Noh Theater

今回の公演は、修羅能として知られる「田村」と親子の情愛と悲哀を描いた「藤戸」の2つの演目の後半部分を、解説と音楽の実演を兼ねた間奏でつなぐという構成で上演しました。原文の詩的な美しさをそのままに、わかりやすい解説を加え、特別に制作した字幕をルーマニア語で掲示しました。予備知識もなく、会場に来て、公演を見るだけで、能の歴史や美学、その表現手段、現代における能の重要性についても観客に理解してもらえるよう取り組みました。

The students putting on Noh masks©︎Yamamoto Noh Theater

また、公演に先立ち、地元の学生や俳優・ダンサーに向けてのワークショップも行い、能の様式を学ぶだけでなく、能面や能装束をつけ、能のさまざまな所作や表現方法が理解できるよう指導しました。予想以上に大勢の参加者があり、非常に熱心な参加者のエネルギーに驚かされました。能という古典の演劇でありながら、そこに内包される普遍的な要素を体感するこの経験が、今後の新たな舞台芸術の創造につながればと切望します。