声になった文学

多和田 葉子|作家

日本語の「朗読」という単語のイメージはあまりよくない。「朗読会をします」などと言うと、もっともらしく、またはいかにもという感じで、詩や小説を声に出して舞台で読んでいる人が思い浮かんで、聞いている方は、聞きに行く前から恥ずかしくなってしまうかもしれない。それに、字が読めない人や子供なら分かるけれども、どうして大人が読み聞かせしてもらわなければいけないんだと思う人もいるだろう。

しかし、ドイツ語圏では、作家は講演会ではなく、朗読会をするのが普通だ。講演原稿より作品のほうが楽しいし、内容も豊かだ。

わたしも1982年、ドイツに渡り、90年代から文学作品をドイツ語と日本語で書いて発表するようになってからは、ドイツで朗読会に呼ばれるようになった。二か国語作家の特色を生かして、ドイツでやる時でも、日本語も混ぜる。すると、音としての、また別の日本語が立ち上がってくる。

ドイツはラジオ文化が発達していて、文学番組も多い。作品批評、作家の座談会、インタビュー、ドキュメンタリー、朗読。ラジオや文学カセットを聞きながら、頭の中の映像の世界に遊んでいる時間ほど楽しいことはない。朗読会ではラジオと違ってそこに、みんなといっしょに聞く楽しさが加わる。みんなの身体から漏れる、笑い、感動、興奮、退屈、いらいら、などが空中を飛び交って、時には連鎖反応を起こして、爆発したりする。

作家の中には読み方の下手な人もいる。それでも面白い。ある文章を読む時に普通の俳優なら、その文章の意味はこれ、という解釈に基づいてしっかり読む。しかし、作家は自分が以前書いた文章に再会すると、戸惑うことがよくある。自分の手から流れ出た文章が何時の間にか一人歩きして、勝手に多義性を膨らましていることへの驚きである。これは、こういう意味でもありえるではないか、書いた時は気が付かなかったけれど、こういう意味のことを無意識に書いたということだろうか、というようなことを思って、作家が驚く瞬間、文学の成り立つ瞬間を共有したような気がして、はっとするのである。

わたし自身もドイツに渡り、87年に初めての本を出してから、ヨーロッパを中心に合計500回以上も朗読会を重ねてきた。同じ世代のドイツの作家と比べてわたしの出場回数が多いのは、文学フェスティバルなどのテーマになる「異文化」、「女性」、「越境」、「言語」、「旅」、「日本」などのテーマにわたしの作品がひっかかりやすいせいでもある。初めは頼まれてどうにかやっているだけだったが、だんだん聴衆の感じることが空気を伝わって感じられるようになり、面白くなってきた。風邪を引きかけている時でも、朗読会の後ではたいてい治っているから、生命力が前面に出てくるアクションなのだろうと思う。