近松門左衛門とルーマニア

安田 雅弘|劇団 山の手事情社主宰・演出家

近松門左衛門の「傾城反魂香」[けいせいはんごんこう]を上演しようと決めたのは2010年のこと。その段階では予想もしていなかったが、今年度(2011年度)シビウ国際演劇祭をはじめ、ルーマニア国内をこの作品でまわってみて、日本の文化や日本という国をあらためて考える大きな機会となった。
6月2日、私たち劇団山の手事情社は、ルーマニアのシビウ国際演劇祭のメイン会場である国立ラドゥ・スタンカ劇場で公演する名誉に浴した。参加審査のきびしいこのフェスティバルに3年連続招聘を受けたこと自体、演劇人としては誇るべきことだ。しかも欧米や日本の評論家、各国のフェスティバル・ディレクターが詰めかけるメイン会場での上演は、めったに世界の演劇人の目に触れることのない日本のカンパニーにとっては、またとないチャンスでもある。

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(c) Mihaela Marin

初参加の一昨年はシェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」、昨年はギリシア悲劇の「オイディプス王」を上演し、予想を上回る好評を博し、今年はいよいよ和物で挑戦することにした。
私は日本の古典作品の上演が海外では乏しすぎるのではないか、という思いをかねてより持っていた。山の手事情社では、欧米の原作作品と日本の作品が同程度になるようにしている。それが私の中でのいわばバランス感覚である。ゲーテやメーテルリンクやテネシー・ウィリアムズに取り組む一方で、落語を原作とする「牡丹燈籠」や、能を原作とする「船弁慶」、今では歌舞伎でも文楽でも上演されなくなった「狭夜衣鴛鴦剣翅」[さよごろもおしどりのつるぎば]なども作品化してきた。結果として、もちろん日本人ゆえということもあろうが、和物がドラマツルギーにおいて欧米作品に引けをとるわけではない、という思いを強くした。
日本のカンパニーが海外公演を行なう場合、欧米作品で乗りこむことが圧倒的に多く、和物は数えるほどしかない。また欧米のカンパニーが和物を日本に持ってくることなどまずない。この輸入超過状態が、明治維新後の新劇移入からずっと続いている。ありていにいえば、明治以来、日本の演劇人は、欧米からの演劇運動や作品を有難く押し戴いているのである。
この流れを少しでも輸出入均衡状態に持っていきたい。そう思っていた折も折、2010年の秋、思いがけないことに、この2年間の活動に対する評価として、国立ラドゥ・スタンカ劇場から作品演出の依頼があった。私は総監督のコンスタンティン・キリアック氏に、その企画を2012年に実施したい、演目を近松門左衛門の「女殺油地獄」にしたい、という希望を伝え、さいわい全面的な諒承を得た。2011年に「傾城反魂香」を選んだ背景には、ヨーロッパで和物を上演し、近松門左衛門の作品をシェイクスピアやチェーホフのように、つねにどこかの劇場のレパートリーとなっている状態にしたい、という思いがあった。近松以外にも、海外に紹介すべき劇作家は数多くいると思うが、演劇人ならば世界中の誰もが知っている日本の歌舞伎、しかもその歌舞伎を代表する作家として、まずは近松の魅力をルーマニアの人々に知ってほしいと考えた。

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(c) Mihaela Marin

今回は、字幕づくりに苦労した。近松作品のルーマニア語訳はない。一部の作品は英訳されているものの、現在全編上演されていない「傾城反魂香」にはそれもない。そもそも、現在劇団で使っているテキストも、私が原作から現代語に「翻訳」したものである。10年ほど前に現代語訳したものを改めて点検し、修正した。それを日本語と英語の両方に堪能なルーマニア人に翻訳してもらう。フェスティバルにはルーマニア人だけでなく、他国の観客も多いので、英語字幕も必要なのだ。その英訳とルーマニア語訳を別の専門家がそれぞれチェックする。それだけでも複雑だが、字幕化に当たっては字数制限があるため、意味が通じ、かつクオリティが保てる翻訳を作るため、上記の作業をさらに何度も繰り返すことになる。
たとえば、こんなせりふがある。

名古屋山三  禄高[ろくだか]三千石の山三が、額に千石、両手に二千石、主君のほかには下げない頭を、これこのとおり。

歌舞伎ファンならいざしらず、名古屋山三[なごやさんざ]と言われても、大かたの日本人にはぴんと来ないだろう。出雲阿国[いずものおくに]とともに歌舞伎踊りを創始したと言われる伝説的な人物である。歌舞伎に登場する際には、不破伴左衛門[ふわばんざえもん]と遊女葛城[かずらき]を争い、鞘当てを演ずる善人のキャラクターである。せりふは、不破伴左衛門を斬り捨てた山三が、問題解決に当たってくれた人たちに謝意を告げる部分だ。
日本人ならば、まんざら意味のわからないせりふではないものの、いざ翻訳となると難しい。まず「禄高」が翻訳者にはわからなかったとみえ、地名と受け取っている様子だったので「給料・報酬」に修正する。「三千石」はどのように訳すべきだろう。価値を表現すべきなのか。その場合「円」か、それともルーマニア通貨の「レイ」で表記するのか。「額に千石、両手に二千石」という粋な感じは伝わるのか。「頭を下げる」ことが武士にとってどれほど名誉にかかわることなのか伝わるか。それぞれしっかり解決しないと、全体の翻訳にかかわる。翻訳方針が問われているのである。字幕の担当スタッフは稽古場で私と打合せを行ない、その後翻訳者とのやりとりを続ける。

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(c) Sebastian Marcovici

「傾城反魂香」は「傾城」という題名からもわかるように遊郭が舞台である。「廓」[くるわ]とも呼ばれる遊郭にはさまざまなしきたりがあり、上方と江戸の違いだけでなく、時代によっても複雑に変化する。それらをどのように翻訳すればいいのか。「年季明け」「茶屋」「新造・禿・太夫・遣り手」といった言葉は、どれ一つ説明するにもかなりの字数が必要となる。ある程度のところで、打ち切らなければならない。
登場人物の名前の表記も迷った。主人公の名は「狩野四郎二郎元信」[かののしろじろうもとのぶ]、その弟子が「雅楽之介」[うたのすけ]。場面によって「狩野」と呼ばれたり、「四郎次郎」あるいは「元信」と呼ばれ、全てを訳していては、煩瑣な上に混乱のもとになる。微妙なニュアンスの違いは目をつぶって、結局「狩野四郎二郎元信」は「Motonobu」、「雅楽之介」は「Uta」で統一することにした。
反省したことは二つある。一つは、私たちが欧米の翻訳を読む際にもこうした混乱は起きている。チェーホフ作品の登場人物のなじみにくさを思い浮かべればわかる。「桜の園」の主人公ラネーフスカヤが、場面によってはリュボーフィ・アンドレーエヴナと呼ばれたり、リューバというあだ名で呼ばれたりする。ロシア人なら、ごく自然に受け取れる約束事を、それなりに勉強し、知ったつもりでいたが、ひょっとすると、いやおそらくかなり雑駁な把握の中で、作品理解をしてきたのかもしれないという反省。
もう一つは、私も含め肝心の日本人が近松門左衛門の世界をろくに知らなかったのではないか、という反省である。3月に起こった東日本大震災は、私の中では近松の存在をとらえ直すきっかけとなった。ルーマニアの観客には、震災への支援と声援に感謝したのち、以下のように説明をした。

v51_04災害の混乱の中、日本では暴動が起きなかった。日本人の秩序立った行動には、海外からも多くの驚嘆と称賛の声が寄せられたと聞いている。たとえ先進国であっても、大規模な地震や津波に見舞われ、ライフラインが寸断され、物資の供給がままならない状況に追い込まれたら、さまざまな不満や不安が一気に噴出し、都市暴動が起こっても不思議ではなかった。実際にそれを警戒して各国の大使館は自国民に避難を呼びかけたのである。
日本が物質的に豊かで、人々が不安や不満をあまりもっていないのだ、と思われるかもしれない。確かにそういう部分もある。が、それだけではないと、私は考えている。
フランスの詩人でポール・クローデルという人がいる。大正末期から昭和初期にかけて、駐日大使を務めた人で、ブカレストの国立博物館にも展示されている彫刻家カミーユ・クローデルの弟でもある。カミーユはロダンの弟子で愛人であったからご存知の方も多かろう。彼が第二次世界大戦中、日本の敗勢が濃くなった昭和18年、パリの夜会で詩人のポール・ヴァレリーにこう語ったという。
「私がその滅亡するのをどうしても欲しない一つの民族がある。それは日本人だ。これほど興味ある太古からの文明をもっている民族を私は他に知らない。最近の日本の大発展も私には少しも不思議ではない。彼らは貧乏だが、しかし彼らは高貴だ。」
ヨーロッパに騎士道があり、日本には武士道がある。単純にいえば、卑怯なふるまいをしてはいけない、臆病であってはならない、というような内容だ。騎士道は大抵貴族のもので、貴族以外の一般の人々までしばる倫理観ではない。
1600年くらいから270年間を日本では江戸時代と呼ぶ。この時期、鎖国といって国を閉ざし、外国とはほとんど交渉しなかった。外国と戦争がなく、大きな内戦もなく、世界史でも珍しい、平和な時代であった。
この江戸時代に、武士道は、サムライだけでなく、一般の庶民にまで浸透した。教育が非常に盛んな時代であった。戦争がないので、腕っ節では出世できず、皆学問をしたである。識字率もヨーロッパ以上に高かったのではないかと言われている。サムライの倫理観がほぼ日本人全体のものになったという遺産によって、つまり卑怯な振る舞いをするな、臆病であるな、という考え方が深く浸透していたからこそ、それは現代の日本人の精神深くにまで及び、この間の震災で暴動が起きなかった大きな要因の一つになったと私は考えている。
そして倫理観を浸透させる上で重要な役割を果たしたのが、歌舞伎や文楽であった。人々は芝居や人形劇を見て、人間とはどのように生きるべきかを学んだ。上司と部下の関係、親子の関係、友人関係はどうあるべきか。謝るとき、褒めるとき、怒るとき、人はどうふるまうべきかの教科書でもあった。お芝居に出てくるいろいろな階層のさまざまなタイプの人の生き方をみて、どのように生きるのが美しいのかを、私たちの先祖は学びとっていったのだと思う。
近松は、歌舞伎や文楽の代表的な作家である。彼は武士のうまれだ。当時劇作家になるということは、武士の特権を捨て去ることで、それほど劇作という仕事に魅力を感じていたのだと思う。彼は徹底して弱い人間の視点から社会を描く。弱い人々のあいだに普遍的なパッションが眠っていることを彼の才能は見抜いたのかもしれないし、人々の弱さをサムライの立場では描けないと思ったのかもしれない。
私は、現代演劇の演出家として、シェイクスピアやギリシア悲劇なども上演してきたが、近松はそれらにひけをとらない、日本を代表するすぐれた劇作家だと思う。彼の作品の魅力をもっと多くの人に知ってもらいたいと思う。

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(c) Sebastian Marcovici

シビウ国際演劇祭での初演は、それまでの不安を一掃してくれた。1階は言うに及ばず、2階まで立ち見の観客が押し寄せ、4回のカーテンコールを受けることができた。終演後キリアック氏からは「衝撃的な作品だった。一昨年の『タイタス・アンドロニカス』もよかったが、今回も大きな成果があった」と、ルーマニアでもっとも影響力のある演劇評論家のジョルジュ・バニュ氏からは「今回フェスティバルで一番の作品であり、安田は18年間のシビウ国際演劇祭の中で、国外から招いた演出家の中で三本の指に入る。この作品をパリでもやってほしい」と望外な称賛をもらった。
フェスティバルの顔である日刊新聞「アプラウゼ」の表紙を「傾城反魂香」の舞台がカラーで飾り、劇評も載った。少々長いが紹介すると以下のようなものである。

「さくらの花」(「アプラウゼ」誌 2011年6月3日 シュテファニア・ドガリウ女史)
さくらの花は日本のシンボルである。それは人生になぞらえられ、はかない美しさゆえに愛されている。日本人の考え方のシンプルさ、物事の見方あるいは理解の仕方の寛容さは、予見できない不安からくる恐怖を持つことなく、超自然的な現象を受け入れることに原因していると思う。その生と死にたいする考え方は、西欧人にとっては、原初的に感じられ、それゆえ余計に刺激的である。死者は霊となり、空中を自由にさまよい、愛する人々の近くにとどまる。
山の手事情社は、このフェスティバルでは常連となっているが、シビウの国立劇場に集まった文化的背景の異なる観客に、日本の典型的な物語を、演出家・安田雅弘が進める《四畳半》スタイルで演じてみせた。役者によって具現化される演技の原則は、ほとんどアクロバットのように、頻繁に短時間止まってはまた動くもので、誰もが会話をする間は、いかなる動きも止めるというものだ。そしてすべての人物が舞台のある場所にグループ化され集まっている。衣装は、日本の伝統の影響を受けたもので、身分の高いヒーローたちは、ゆったりとした着物をはおり、また農民は、簡単に仕立てたみすぼらしい着物をきている。
舞台美術、装置は、日本演劇の特徴を否定するものではない。最小限主義である。すなわち三枚ののれんからなっており、舞台の背景に並べられ、真ん中のものだけが他のものより1メートルほど後ろに置かれている。これにより役者の出入り口が確保されている。こののれんに、絵や風景の映像が映される。なぜならば主人公は画家だからである。
画家の名は、狩野元信。この人物は15世紀から16世紀にかけて生きた実在の人物である。彼は一人の高級娼婦と恋に落ち、結婚を約しながら、その後経済的な理由からお姫様と結婚することになる。娼婦は、まさに結婚式当日、画家の将来の妻にその夫を49日間借り受けることに成功する。しかし実はその時点で娼婦は死んでいたのであった。元信はのちに、彼が死後よみがえった娼婦の幽霊と一緒に生活していたことを知る。愛情と献身の融合の物語は、サムライにとって名誉と忠誠が二つの大切な規範であったように、日本文化に特徴的なものである。名誉を保つためのハラキリとは対照的に、堕落した周辺の現実が存在することもまた事実であろう。
日本の演劇に特徴的なことは、階層の異なる登場人物が複雑に関係することにある。体を売ることを余儀なくされてはいるものの知性的な芸者と、多くの腰元に怠け者と非難されているお姫様が、同じ話のヒロインとなり、ライバルとなる。同じ社会の両極に属する女性が、運命のいたずらによって、一方の幸せが、他方の不幸となる。皮肉にも、愛する一人の男の心にそれぞれがそれぞれの場所を占めるのである。限られた時間を画家と過ごす娼婦。そして結婚の初めの日々を譲ることにしたお姫様。勝利のバランスは、最後まで添い遂げることになるお姫様の側に傾く。にもかかわらず、演出家が考えたフィナーレは、二人の夫婦を待ち受ける「永遠」に疑問の陰を投げかける。本当の愛は、さくらの花のごとく、数日しか保たれないのかもしれない。美しいものは、短命であるのかもしれない。

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(c) Sebastian Marcovici

次の都市トゥルダでの公演では、シビウとは違った反応があった。人口わずか7万の小都市で、日本人カンパニーの上演は初めてだという。芝居好きの市長も公演に足を運んだ。かつてカジノだったというホールは、舞台部分を付け足した構造で、声の反響はとてもよい。残念ながら、一般的な劇場機構は十分には備わっておらず、備品等も不足していた。しかし、スタッフの専門性は高く、備品不足に真摯に対応してくれた。観客は収容人数400席を上回ったため、50席ほどの補助席を出した。
公演が始まると、客席がとても興奮していることがわかった。オープニングのダンスが終わると大きな拍手が起こり、その後シーンの切れ間にもオペラの幕間かのような拍手が起こった。エンディングでは拍手の大きさで俳優がきっかけを取れなくなるほどであった。終演後は5回ものスタンディング・オベーションをもらうことができた。日本ではありえないような反応も海外ツアーの喜びの一つである。
最後のツアー地ブカレストでは、オデオン劇場というすばらしい舞台で公演することができた。築100年というその劇場は、市内中心地に位置し、開館当初より客席の天井が電気で開閉する高級な構造をもつ劇場でもある。客席が4層で、2階はボックス席、4階は天井桟敷で、ブカレストの観客の喜怒哀楽を長い間吸いこんできた重厚で甘い独特の雰囲気があった。
上演中、ときどき起こるため息やささやかな笑いを通じて、作品が観客をとらえていることが伝わってくる。終演後のスタンディング・オベーションは熱狂的で、拍手は5分間鳴りやまず、俳優たちはカーテンコールに応えた。
見にきていたクライオーヴァのシェイクスピアフェスティバルの芸術監督ボロギナ氏より、「2014年のフェスティバルに参加してほしい。作品は何でもいい、ともかく枠を空けておく」というありがたい言葉を受取った。

2011年12月、私は「女殺油地獄」のキャストを決めるために再びシビウを1週間ほど訪れた。日々別の本番をこなす俳優たちに、毎日3時間ほどのワークショップを実施し、基礎的な訓練から、台本の本読みまで一通りおこなった
わずかな時間ではあるが俳優たちと接して感じたことは、大きく2つある。ひとつは演劇のあり方の違いであり、もうひとつはそれに関連する演劇教育の違いである。
演劇のあり方については別の場所でも述べてきたが、端的にいえば、劇場や演劇人は税金によってまかなわれるべき国民の財産である、という考え方がごく当たり前に浸透していることである。これはヨーロッパでは常識だが、残念なことにわが国では実現にはほど遠い。
演劇教育の違いということでいえば、今回感じたのは、彼らが人と振りを揃えることがとても苦手であるという発見であった。「人と同じことをしない」ことがいわば彼らの常識であり、逆に考えれば、「人と同じように振舞うこと」は日本人にとって誇ってもいい特長なのではないかと思えた。
発声も息を引くように指導する日本人である私に対して「息を吐いて発声するようにずっと言われている」とまったく逆なやり方がどうやらヨーロッパの常識である。
現在このワークショップをもとに、テキストを大幅に修正し、キャストを検討しているところである。今年(2012年)6月から稽古に入り、9月には初演を迎える。この公演ではヨーロッパ演劇に対して大きな挑戦をしかけるつもりであるが、それは徐々に明らかにしていきたいと思う。

◎山の手事情社ウェブサイト: http://www.yamanote-j.org/index.html