事務局からの報告

古木 修治|事務局長

はじめに

東日本大震災。あの日から、1年あまりの月日が経過した。
遠い過去のことだったようでもあり、つい昨日の出来事だったようにも感じられる。私が東京で感じた強い揺れは、確かに生まれてこの方体験したことがないほどの激しいものであった。同じ頃、東北地方の沿岸一帯に、想像を絶する規模の巨大津波が襲いかかり、人類史上、未曽有の深刻な事態が進行していた。その後、私たちは被災地から次々と送られてくる衝撃的な映像を目の当たりにし、茫然自失となった。何百、何千という車両、家屋、そして船舶までもが津波に巻き込まれ、まるで巨大な濁流に投げ込まれた無数のマッチ箱のように翻弄されていた。展開する光景は無音だった。地獄絵巻のような惨状にただただ絶句するほかなかった。凄絶な大自然の脅威が容赦なく襲いかかった地域では多くの命が犠牲となり、残された人々は、絶望の淵に立たされていた。
奇しくも前日の3月10日は、東京大空襲から66年目にあたる。その日、東京に投下されたおびただしい数の焼夷弾は、市街地の大半を焼き尽くし破壊した。犠牲となった市民は一夜で10万人を超えた。敗戦直後、東京の焼け野原に立った占領軍将校の一人は、その惨状に思わず呟いたという。
「これでは復興に200年はかかるだろう。」
66年前の焦土化した東京、そして、今回の津波で破壊された東北の海岸線。二つの惨状が私の脳裏で重なった。戦災であれ、天災であれ、その前では人間とはなんと無力な存在なのか

 

一本の電話から始まった「ガンバレ東北!!」

「苦難は忍耐を生み、忍耐は試練に磨かれた徳を生み、その徳は希望を生み出す。この希望は、私たちを裏切ることはない。」
新約聖書 ローマの人々への手紙 5章

被災地の多くの人々が、冷静を保ち、果敢な姿勢で逆境に立ち向かっていたことは世界中を驚かせた。一年が経過した今なお、多くの人々が困難のなかに取り残されていることは、厳然とした現実だ。しかし、「絶望」という名の東北は、徐々にではあるが「希望」という名の東北へ向かって、長い道のりを進み続けている。
震災直後から、自衛隊、そして地元の警察、消防による懸命な救助活動がはじまった。しかし、甚大な被害はあまりにも広域に及んでおり、その収束への過程を想像することさえできなかった。ありとあらゆる救援行動が求められていた。当時、身の危険から、現場から離れてゆく報道機関も少なくなかったが、逆にすれ違うかのように、国内外の多くのボランティアたちが、被災地に向かった。混乱と闇の中で、希望の灯が点火されたようにも思えた。
私たちにも東北各県に多くの仲間がいた。直後は通信が混乱し、交通が遮断され、彼らの安否を知るすべもなかった。かけ続けた電話も通じず、絶望的な報道が続き、空しさと焦燥感が募るばかりだった。
3日後、私の携帯が鳴った。福島県奥会津の遠藤さんからだった。飛びつくように電話に出た。彼女の無事を知り一端は安堵したが、息つく間もなく、電話の向こうから切迫した状況が伝えられた。会津では、浜通りの地域(福島県の海岸地帯)から、命からがら避難してきた方々の受け入れが始まっていること。そして、交通が遮断された中、地元の人々が孤立した地域への物資調達を懸命に行っていること。それらは、報道からは知りえない非情で途方もない現実だった。
その後の私たちの行動は、小さな規模ではあったかもしれないが、ともかく遠藤さんの「すべての物資が足りません。」との衝撃的な言葉から、首都圏の有志に呼び掛け、必要とされる物資の輸送活動がはじまった。そして、全国の仲間たちが、この輪に加わるまでにさほど時間はかからなかった。その連鎖の動きは、まるで各地から次々と大災害に対する反撃の狼煙があがるようにも感じられた。
被災地の最前線では地元ボランティア団体が連絡を取り合い、公的な救助活動が届かない孤立した避難者を探し出し、状況を把握する。そして、緊急に必要とされる物資リストが次々と私たちへ送られてくる。乳幼児から、高齢者に至るまで、その緊急に必要とされるリストは日一日と変化した。東北への高速道路が再開されるまでの数週間は、連日、日本海側の新潟を迂回するルートで福島県会津の基地へと送られ、そこから、分断されていた道路を縫うように、リレーで太平洋側の福島、宮城へと届けられた。全国の有志から送られる物資には、「ガンバレ東北!!」のロゴが張り付けられていた。
私の携帯メールの履歴には、当時、刻々と状況が変化するなか、ボランティアが夜を徹して行った支援物資運搬の様子が生々しく残されている。
「支援物資を積んだ3トントラックは、現在、福島県中通りを北上中、宮城県東松島市へ向かっています。」
「ただいま、仙台泉に入りました。これから北道路で利府に向かいます。」
「がんばっべ!」
今でも、これらのメールを読み返す度に、熱いものがこみあげてくる。
彼らは、救助活動ではなく、これまでの芸術文化活動を通して、出会った仲間だ。しかし、降りかかった事態に、促されるままに連帯し行動が広がった。私は、そのことを改めて考えてみた。結局、私たちは何を運ぼうとしていたのか。確かに物資は運んだが、そこには送る人、運ぶ人、そして受け取る人のすべてが共有した多くの思いが存在した。振り返ってみれば、ボックスの中身は、毅然とした連帯の意志だったことに気付いた。

逆境での芸術とは

「神がもし、私に最も不幸な人生を用意していたとしても、私はその運命に立ち向かう」
ベートーベン

 

もし、ベートーベンが宮廷の職業音楽家として、順風満帆な人生を送ったとしたら、人々の魂を揺さぶり続けるような交響曲の数々は生まれていなかったに違いない。大きな試練と苦悩のなかで創造された音楽は、時空を超えて、現代においても、今なお、私たちにとって偉大な存在として、燦然と光を放っている。
人間が極限まで追い込まれたとき、私たちは、何を武器に自分たちの精神を守り、何を糧に人生を生き抜こうとするのか。無論、芸術が直ちに何らかの役割を果たすとは限らない。しかし、それが表面的なものでなく、人々の魂に訴えることができれば、そして、受け止める人々が存在すれば、何かを生み出し、何かをなし得ることに繋がる。
震災後の混乱の中、本年度の欧州文化首都開催都市、フィンランドのトゥルク、エストニアのタリンの実行委員会の方々から、相次いで、電話をいただいた。彼らは、私たちにとって、これまで往来を重ねてきた旧知の仲だ。
時間をかけて築かれた信頼関係は、取り巻く状況、立場、意見、価値観の違いを乗り越える。彼らは私たち事務局の無事を確認するや否や、異口同音に「続けましょう。どんな困難があっても、今年の予定プログラムは実施しましょう。」と言葉をつないだ。彼らの力強い「宣言」は、漆黒の闇のなかで、天空から差し込む一縷の光のようにも感じられた。私たちは、祈るような気持ちでこの光線が降り注がれてくる上空を見上げた。
バルト海に面した二つの国は、大国の圧政、支配という苦難を乗り越えてきた歴史を持つ。どんな時代にあっても、芸術文化の存在が、常に厳しい現実の向こうにある希望の未来を人々に提示してきた。シベリウスの交響詩「フィンランディア」はロシアの圧政の下、苦しみ、心折れそうになっていたフィンランドの人々をどれほど勇気づけ、励ましたことか計り知れない。また、エストニアでは、半世紀以上におよぶソ連の支配は過酷を極め、この間、国民の人口の3分の1を失った。そして、苦難の末「歌の革命」が起きた。何十万という国民が手をつなぎ、それまで禁じられていたエストニア語で歌いながら戦車の前に立ちはだかり、一滴の血を流すことなく、ついには民族再独立を果たしたのだ。
一方、私たちが、欧州文化首都とやり取りを交わしている同じ頃、仙台では瓦礫のなかから、活動を再開した合唱団があった。宮城三女OG合唱団だ。幸い犠牲となった団員はいなかったが、彼らの中には、震災によって命を落とした身内、友人、知人がいたことは言うまでもない。その状況の中、いち早く地元ボランティアとして、避難所となっている学校の体育館で活動を始めた団員もいた。そこで彼女が目撃したのは、なすすべもなく泣き暮らしている人々の姿だった。期せずして「歌いたい!」「歌いに来てほしい!」との声が、団員そして被災者の双方から湧き上がった。この日を境に求められるまま、合唱団は、破壊され通行もままならない商店街や、多くの市民が身を寄せている避難所を回り、再び歌い始めた。「歌の力」は、決して無力ではなかった。そして、事態は新たな展開を見せてゆく。無論、半年後、欧州文化首都の2都市で歌うことになろうとは、この時点では知る由もなかった。

 

その時、若い合唱団のメンバーたちは

「復旧」は、迅速な物量の支援によって達成される物質的・量的な回復であるのに対し、「復興」では、長期的な視点での精神的・質的な充足と発展を目指し、人間の意志と実行力が求められる。お互いが、心を寄せ合い、助け合い、支え合う。それが、「ガンバレ東北!!」の活動の根底にもあった。長年、私たちが、欧州文化首都への参加を通じて、築いてきた国内のネットワークが、初動の原動力となった。当初は、緊急に必要とされる物資が、人から人へと送られた。しかし、物質的な充足によって、精神的な欠落のすべてが埋められるわけではない。それとは逆に、精神的な喜びは、物質的な欠落を補う。やがて、主要交通網が回復し、被災地域での流通が動き始めると、求められるものも形を変えていった。時には音楽、時には詩、時にはダンス等々。地元の人々との話し合いを重ねながら、様々なプログラムが始まった。
5月末には、エストニア合唱連盟代表で指揮者のアールネ・サルヴェールさんが来日した。欧州文化首都タリンで、10万人を超える大観衆を前に2万5千人の合唱団を指揮する音楽祭『歌の祭典』を間近に控え、多忙な時期にも関わらず彼はやってきた。この橋渡しをしてくれたのは、日本・エストニア友好協会の荒井秀子さん。1990年代から、長い間、彼女自身が力を尽くしてきた両国の音楽交流で培われた人脈が、大きな後押しとなった。サルヴェールさんが訪れた福島県や宮城県は、元来、合唱活動が盛んな土地柄であり、長い間バルト諸国との音楽交流も続けられてきた。地元の合唱団や学校がようやく活動を再開した時期と重なり、各地でのワークショップに参加した団員や生徒たちは、真剣そのものだった。世界トップクラスの合唱指揮者による指導ということもあり、緊張感がみなぎっていた。お腹の底から大きな声を出すことに加えて、繊細な要求も相次いだ。彼は、20年前の「歌の革命」を主導した一人だ。その彼の力強い指導ぶりに応えようとする子供たちの歌声が、次第に美しく豊かに変わってゆく様子に、見守っていた大人たちは安堵の表情を見せた。
4か月後、欧州文化首都トゥルクとタリンの2都市で開催された『国際青少年音楽祭』には、宮城三女OG合唱団をはじめ、東北や九州から参加した5つ合唱団が熱唱する姿があった。日本の合唱団が万感の思いで歌った「フィンランディア」、「エストニア讃歌」はいずれも両国の魂を象徴する曲だ。地元の聴衆は、自分たちの苦難の歴史と現在の日本の逆境を重ね合わせて聴き入っていたのかもしれない。終演とともに会場に鳴り響いた歓声と拍手は、心の底から湧き上がる地鳴りのように感じられた。

 

 

20年間で育んだ連帯

今年度もあと数日で終わろうとする2012年3月28日、私は、ブラッセルのEU本部で、元ラトビア外相で欧州議会議員のサンドラ・カルニエテさんにお会いする機会を得た。2014年には、ラトビアの首都リガが欧州文化首都に制定されている。すでに現地委員会と日本のアーティストの取り組みも始まっていることもあり、ブラッセルで欧州連合日本政府代表部の塩尻孝二郎大使が私を彼女に引き合わせてくれた。
カルニエテさんは、この日、同僚の欧州議会議員に呼び掛け、ドキュメンタリー映画「Children of the Ice」の上映会を開催した。この映画は、第2次大戦前後から、ソ連の支配下で反政府運動を疑われ、遠く離れたシベリアへ強制移住させられたバルト3国の流刑囚をめぐる作品だ。当初、ソ連は、残酷非道を極めたナチス支配からラトビアを解放した救世主として、国民から熱狂的に歓迎された。しかし、それも束の間、期待は無残にも裏切られた。ソ連は、反政府的な思想を持つなどと嫌疑をかけた国民を次々と捕らえ、シベリアへ送った。その数は、10数万人とされる。カルニエテさん自身も、シベリアで流刑囚の両親のもとに生まれた。凍てついた大地で、十数年にも及んだ飢餓や病魔と闘う日々で、多くの人命が失われた。上演後、彼女は満場の議員たちに語りかけた。
「過酷な歴史があったことを忘れてはなりません。しかし、大きな試練が、強い意志を育んだからこそ、現在のラトビア、そして今のヨーロッパがあることも忘れてはならないのです。」
スターリンの死後の雪解けを機に、4歳半のカルニエテさんを連れた家族は、1957年に念願の祖国ラトビアへの帰還を果たした。その後、彼女は、人民戦線の活動家としてソ連からの独立運動の先頭に立った経歴でも知られている。想像を絶する苦難を乗り越えてきたカルニエテさんだが、震災以来、様々な機会をとらえて、逆境に立ち向かう東北の人々への励ましと連帯の気持ちを寄せてきた。この4月には、カルニエテさんらの尽力により、欧州議会内で、東日本大震災についての写真展の開催が予定されている。そして、この一環として、ヨーロッパをはじめ、一万人近くの人々が、参加した写真プロジェクト作品も展示される。展示される写真一枚一枚には、「ガンバレ東北!!」のロゴを手にして、日本へ心を寄せる気持ちが込められている。この取り組みは、各欧州文化首都で日本と関わった多くの仲間たちの呼びかけで始まった。この20年間で広がった国境を越えた芸術文化の連帯が、苦難に遭遇した人々にも向けられたことを私は心密かに誇りに思っている。

 

 

連帯の先に目指すもの

「若き日に望んだことは、老年において見つかる。」
ゲーテ 

 

3月11日の震災は大変不幸なことだった。しかしながら、私たち日本は前に進んでいかなければならない。そのためにも、今を生きる若者に、夢を持ち続けてほしい。
ゲーテ生誕250年となる1999年、ワイマールが欧州文化首都に選ばれた際、開幕式でドイツ大統領のローマン・ヘルツォークが、この町に比類なき文化の礎を築いた詩人ゲーテを讃えながら、次のように演説した。
「最終的には、単に政治的な戦略や、壮大な技術的な目標以上のものが必要なのです。もし、人々の文化への要求や憧れなどが、真剣に受け入れられるならば、私たちの将来はとても人間らしいものになるでしょう。このことから、親や教師は子供たちの芸術的才能や特性に敏感になり、必要であれば助けるべきなのです。このことから、大多数が即座に興味を示さないような芸術の形に対しても、適切な立場を認めるべきなのです。」
いつの世も、若者は多感だ。成長するにつれ、社会に存在する多くの矛盾や課題を肌身で敏感に感じていることも確かだが、やがて、目に見えない社会の壁に阻まれ、彼らの夢や理想は破れ消え去ることも多い。
古今東西を問わず、大人は若者に対し「次の世代は君たちの手に託されている。」と語りかけてきた。このメッセージは、今の若者が大人になる次の世代においても繰り返されるに違いない。一方、自戒を込めて言うが、常に私たち大人は、若者の欠点には敏感であるが、その反面、長所には鈍感であることが多い。大人が若者にどんな未来を託そうとするのか。大人は彼らの考えに関心を持ち、その実現の道筋に腐心することが求められる。若者は、どんな些細なことであっても、大人の行動をいつも見つめている。若者の未来のためには、大人が自らの行動をもって、気概を示す以外ない。

未来は、今日始まる。明日始まるのではない。
わたしたちには永遠の時間が与えられてはいるわけではない。