最近思っていること

村川 拓也

 2020年2月に「Pamilya(パミリヤ)」というタイトルの演劇作品を上演したとき、ちょうどコロナウイルスが日本にやって来ていて、はじめて人々の間に広まりつつある時期でした。市の職員から連絡があり、上演を中止するかどうかの話し合いがありました。私は、劇場でリハーサルの真っ最中だったので、その話し合いには参加できず、代わりの者に行ってもらいました。市からは、中止するようにという要請はなく、中止するかどうかの判断をこちらに任せるということを伝えられました。まだコロナウイルスについてほとんど何も分かっていない状況で、とにかく不安しか感じない状況だったし、高齢者施設で働く介護士に出演していただいていたこともあり、すぐに頭をよぎったのは、「中止するべきだ」という判断でした。でもリハーサルは継続中だったので、すぐに出演者やスタッフにはこの事は伝えず、私は作品づくりを続けました。リハーサルではちょうどランスルーをしていました。できあがりつつある作品のランスルーを観ながら、同時に「中止するべきだ」という考えが頭の中にあり、集中することができませんでした、最初は。でも、作品のはじめからランスルーをはじめて、最初はもやもやとしていたものが、たぶん10分後ぐらいには不思議と無くなっていました。ついさっきまで「中止するべきだ」と判断していたものが、きれいに無くなってしまったのです。なぜかというと、すごくいい作品だったからです。コロナウイルスの不安や「中止にするべきだ」という考えが、すごく後ろの方に追いやられて、目の前で起こっていることに頭の中がいっぱいになりました。夢中になって観ていたということだと思います。ランスルーが終わるころには、絶対に上演すると心に決めました。「中止にするべきだ」というのは一般常識として、社会に折り合いをつけるあたりまえの判断だと思います。反対に、この作品は何が起ころうと絶対に上演するというのは、非常識で社会に折り合いをつけない判断だと思います。そっちの方がかっこええやん、みたいなことを常日頃から私は思っているわけではなかったと思うのに、中止せず上演を決行する方を選んだことは自分でも驚きました。

Photo by Yoshikazu Inoue

 作品の世界というのは、現実の世界とどういう関係があるのでしょうか。もちろん芸術は現実社会と必ずつながっているし、つながっていないといけないみたいなことはよく言われているし、その通りだと思ってはいます。でもそのときはこう思いました。「現実社会なんてどうでもいい、現実社会と作品はなんの関係もない」と。私は現実にある物事を扱って作品を作ってきました。俳優ではなく、一般の働く人々に舞台に上がってもらってきました。ドキュメンタリー演劇だと言われます。そのときに、いつも思うのは、まず社会があって、その中に作品があるという構図があるなということです。土台が社会で、作品というのはその土台がないと成立しないという並びです。だからコロナウイルスとか社会的なダメージがあると、土台が無くなってしまうので、作品を置くことができないみたいなことです。そういう並び方に、いつも作品を作りはじめると違和感を覚えます。作品は、社会や現実とは別のところで、カプセルの中に入ってふわふわと浮いていたり、魅力的な異物として生み出されるものではないと思っているからです。作品は、作品もまた現実を作っているはずです。とくに舞台芸術はそう思います。ライブで行われる行為だからです。この作品はフィクションだとか、こっちはドキュメンタリーだとかよく言うけど、私は全ての作品は現実の行いだという考えを持っています。震災があった時に、被災者について、人為的事故について、政治について、すこしでも生活が良くなるように、すこしでも考えがまとまるように作品にする行為は、ダメージを受けた社会に対してとか、壊れた世界に対してとか、一歩引いた場所で特別に行われることではなく、作品を作る行為もまた現実を構成する一つの行いであるということです。私が、「Pamilya(パミリヤ)」の上演を決行したときもそういう風に思ったんだと思います。作品は社会という土台がないと成立しないのではなく、また、作品と社会の繋がりの中でしか成立しないのではなく、作品自体が現実であるので、その現実を無いことにはできません。上演を中止するということは、土台の有無によって左右され、作品というのはいつでも消えてなくなるもの、無くなってもいいものということに我慢ができずにいたんだと思います。今目の前にあるランスルーの現実を無いことにはできないだろうと。私は現実の演劇を作りたいから。

Photo by Yoshikazu Inoue

 2021年12月に、京都市京セラ美術館で「CONNECT⇄__」という展覧会があり、私は美術家の中原浩大さんの展示にスタッフとして働きました。中原浩大さんは展覧会に寄せたコメントに、「私には、芸術、作品、作家、創作といった言葉や概念を使うことなく、自分自身の営為を説明したいという気持があります。」と書いていました。彼がずっとこういうことを思いながら活動してるのか、最近そう思っているのか、それはわからないけど、2020年から現在にかけて、私が感じていることと直接繋がりがあるような気がしています。私の頭で考える範囲ですが、作品とか芸術とかの形とか価値とか目的みたいなものがどんどん無くなってきているような感じがあります。コロナウイルスが原因でいろいろと変化した世界によってなのか、たかが10年足らずの作家活動ですが、私の年齢的なことによってなのか定かではないですが、そんな感じがしています。他にも、こんな印象を持っています。たくさんのいろんな人々が、たくさんのいろんな違う考えを持っていて、それがものすごく明るみになってきているということ。家族とか友だち以外の人々が、家族とか友だちのようにこちらに話しかけてきたり、家族や友だちにだけ話すようなことが他の人々に届いてしまったりしています。ここからここまでと思っていたものが、実はいつのまにか線引きが消されていて、大きなものから小さなものまで、多くのものが露わになっている感じがします。そうした時に、どういった目的とか価値みたいなものを持つことができるでしょうか。どうやってもう一度まとめればいいのでしょうか。まとめること自体をやめましょうか。私が作る現実の演劇や中原浩大さんの言う「営為」というのは、これからどうゆうふうに存在できるでしょうか。

Photo by Yuki Moriya Courtesy of CONNECT⇄

 

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*プッシュ型支援プロジェクト#TuneUpforECoC 支援アーティスト*
https://www.eu-japanfest.org/tuneupforecoc/

(*2022年1月にご執筆いただきました)