事務局からの報告 「これまでの20年、これからの20年」

古木 修治|事務局長

初めに

静かな夜更けに、ふと考えた。私達にはあと何日の生命が残されているのか。何万日?何千日?いや何百日?ひょっとすると何十日?いずれにせよ、誰にとっても永遠でないことだけは確かだ。若者は「老い」に向かい、老人は「死」に向かう。残された日々、いや、与えられた日々をどのように生き抜くのか。それを考えることは、決して無意味ではない。医学の発達、平和な世界が可能にしてくれた長寿には、私達の「死期」を先送りしてくれただけではなく、きっとそれ以上の意味があるはずだ。
グローバル化が進んで経済が発展し、どんなに物質的な豊かさを勝ち得たとしても、それが直ちに人間のあらゆる苦悩を取り除き、精神的な豊かさをもたらしてくれる訳ではない。私たちは、日々、愛情、憎悪、喜び、悲しみ、苦悩、感動、嫉妬、羨望、絶望、希望など、様々な感情が行き交う葛藤のなかにいる。
人間の内面の奥深いところでは、常に「人間とは何か」という根源的な問いが生まれ、生涯を通じて、通奏低音のように存在し続ける。その問いに併走しつづけるのが芸術文化の存在だ。これまでの20年間の活動を振り返るとき、芸術文化は、非力ではあっても、決して無力ではなかったと確信している。

 

欧州統合という歴史的試み

20世紀に勃発した2つの世界大戦は、いずれもヨーロッパに端を発し、地球全体を戦火に巻き込んだ。史上最大の惨劇が人類に遺した尊い教訓から、欧州の政治リーダーたちは「一つのヨーロッパ」を目指し、長い道のりを歩み始めた。人類史上、かつてない壮大な試みはやがて、ひとつの結実へと向かう。1990年代に入り、第二次世界大戦の終結直後から積み上げてきた欧州統合への動きは、重大な段階を迎えていた。そして、1993年、加盟12ヵ国による欧州連合が誕生した。「戦争の世紀」とされた20世紀の終わりに、この大陸には広大な平和ゾーンが出現したのだ。

 

欧州文化首都の誕生

欧州統合は「国民国家」を超越する歴史的な変革だ。当然のことながら、各国には国家主権の多くを差し出すことが求められた。その結果、EUという旗の下、多くの矛盾、軋轢も浮き彫りとなった。その一つに、文化の問題があった。新たな局面を迎え、伝統的な文化の基盤が崩れようとしている一方で、根源やルーツへの回帰、そして、斬新な文化を創造しようとするエネルギーも顕著になった。文化を破壊すること、守ること、創造すること。それら異なるプロセスは、鋭く対立するもののように考えられてきた。しかし、いずれも相互に必要とされるプロセスだったのだ。文化の多様性は、ヨーロッパがどうしても守らなければならない財産であり、同時に必然だった。
欧州文化首都が創設されたのは、1985年。加盟国が持ち回りで、一年を通じて、芸術文化を巡っての対話と創造的な活動の展開を目指した。それは、国家間のプロパガンダではなかった。市民一人ひとりに、芸術文化を通して「生きる」ことに向き合い、楽しみ、対話し、連帯することを促すという極めて人間的な狙いがあった。初の開催都市となったのは、ギリシャのアテネ。ヨーロッパ文明の起源を辿れば、その決定に各国の異論はなかった。以降、86年のフローレンスに続き、次々と引き継がれている。
地域が主体となって推進する芸術文化プロジェクトが、欧州文化首都の特徴だ。EUは制度的枠組みを決定し、開催国政府とともに財政支援は行うが、内容については、権限は持たない。あくまでも開催都市実行委員会が、最前線に出て、全責任を負い、市民ひとりひとりの目線を重要視しつつ、準備をすすめる。注目すべきことは、世界レベルの質の高さにもこだわっていること、そして、この活動が、芸術文化の大衆化ではなく、大衆を「芸術文化」化することを目指していることだ。

 

「グローバル化」への新たな展開

統合によっては、EU域内の「ヒト、モノ、カネ」の往来が自由となったと同時に加盟各国の国境の概念も大きく変化した。例えば、ベルギー。南にフランス、西にドイツとルクセンブルグ、北にオランダというかつて存在した国境線はなくなり、加盟12ヵ国と域外との境、すなわち、自分たちの住むベルギーとは遥か彼方に新たな国境線が引かれた。それによって、彼らには、ベルギー人であると同時にヨーロッパ人としてのアイデンティティが求められることになったのだ。
「ひとつのヨーロッパ」という新しい概念から、欧州文化首都は、域外の世界各国にも参加を呼びかけることとなった。この活動のグローバル化は加速し、その流れに沿って、日本もその対象となったことは必然だった。地球規模で、あらゆる分野の交流や共同の取り組みが拡大する時代に入り、従来の「国と国の際」を基本におくいわゆる「国際交流」という概念と役割は、節目を迎えていたことは間違いなかった。

 

「日欧貿易摩擦」のなかで、日本への呼びかけ

戦後の日本は、長期間にわたって驚異的な経済発展を続け、1980年代の終わりには、世界の経済大国に登りつめていた。停滞の続くヨーロッパ経済にとって、市場を席巻する「メード・イン・ジャパン」は恐るべき驚異と映り、貿易摩擦の拡大は、政治問題化して、日欧関係に暗い影を落としていた。「エコノミック・アニマル」とは、当時の日本人を揶揄した表現で、欧米のメディアにしばしば登場した。仏首相クレッソンは「日本は、米欧共通の敵」とまで公言してはばからなかった一方、日本でも強大な経済力を背景に「もはや欧米に学ぶことはない」と豪語する有力者も少なからず存在した。ヴィクトル・ユーゴーは「強く激しい言葉は、その人の主張の根拠の弱さを示す」という言葉を遺したが、まさに至言だ。冷静さを欠いた日欧の感情的な非難の応酬は続いていた。しかし、「貿易摩擦」は、あくまでも経済問題に過ぎない。そこまでこじれる背景には、もっと奥深いところに問題があった。当時の日欧関係において、お互いの理解や尊重といった人間的側面が著しく欠如していたことは明白であった。

1992年、そんな状況のなか、来日したベルギー副首相兼外相ウィリー・クラースは、日本の外相渡辺美智雄に対し、翌年に控えた欧州文化首都アントワープへの協力を要請した。この呼びかけは、戦後最悪の様相を呈していた日欧関係を見直す意味でも、重要な鍵を握っていたはずだが、残念ながら、日本政府が反応ははかばかしくなかった。
この事態を、苦渋の思いで受け止めていたのが、日本文化に造詣の深かった駐日ベルギー大使パトリック・ノートンだった。この機会を逃してはならないと彼は迅速に動いた。彼の熱い呼びかけで、日本ベルギー協会会長の松本誠也パイオニア社長をはじめ、日本の財界人や文化人らが呼応し、欧州文化首都における活動を後方支援するために、EU・ジャパンフェスト日本委員会が設立された。

 

アントワープから始まった「EU・ジャパンフェスト」

1993年、第1回EU・ジャパンフェストの開催地となった欧州文化首都アントワープの現地実行委員会は、数年前から、日本での度重なる事前調査や交渉をもとにプログラムの準備を周到に進めていた。その計画には、開催年以降の展開も視野にいれ、中長期に渡る息の長い活動を目指すことが盛り込まれていた。実行委員長エリック・アントニスは「欧州文化首都として、大陸の境界を越えてみたかった。」と語ったが、欧州統合によって、この活動の立ち位置は劇的に変わり、グローバル化の中で拡大深化することへと大きく舵を切ったのだ。記念行事として開催されたシンポジウム「東西の文化と共通の価値」の基調講演に立ったベルギー元首相エースケンスは、「日本が明治以来、西欧文化を積極的に取り入れてきたことに対し、欧州側は日本文化に対し、無関心、無知である。」と述べ、自省を込めつつ、日欧関係への危機感を顕にした。同時にその発言には、過去のバブル期に日本が主導した「国際交流」が一過性、一方通行であったという厳しい指摘も込められており、「真の交流とは何か。今後、日欧は何を目指すのか。」を巡り、熱い議論が交わされた。

 

1994年リスボンから、1999年ワイマールまで

愛国的な文化や学問は存在しない。いずれもが世界共有の財産であり、現在の刺激をもとに未来へと発展してゆくものである。(ゲーテ)

 

「文化の普遍性」を謳うゲーテの言葉は、2世紀以上が経過した現代においても、なお輝きを放っている。欧州文化首都は、その後、ポルトガルのリスボン(1994年)、ルクセンブルグ(1995年)、デンマークのコペンハーゲン(1996年)、ギリシャのテサロニキ(1997年)、スウェーデンのストックホルム(1998)、ドイツのワイマール(1999年)と続き、「EU・ジャパンフェスト」も回を重ねた。文化には国境がなく、その価値を世界各国と共有しようとする開催都市の意気込みは、日本の伝統文化にも向けられた。そのいくつかの例を紹介する。
リスボンでは、地元のグレゴリオ聖歌と真言宗の聲明(しょうみょう)の合同演奏が実現し、「魂の音楽が海を渡ってきた」と大きな感動を巻き起こした。ストックホルムで取り上げられた歌舞伎は、日本の伝統文化、日本固有の文化という位置づけではなく、「世界を代表する舞台芸術」の一つとして取り上げられた。その姿勢は過去の国際交流には見られなかったものだ。公演に先立って、歌舞伎の歴史や魅力を解説する「市民講座」が7回に渡って行われ、スウェーデン国営TVが特別番組を制作するなど、充実した受け入れ体制は、国際交流という次元を超え、深みのあるプログラムとなった。
欧州文化首都は、美術、舞台芸術、デザイン、写真、建築など、幅広い分野で才能あふれた若き日本のアーティストにも熱い視線を向けた。ダンスの勅使川原三郎(1996年コペンハーゲン)、建築の妹島和世(1998年ストックホルム)など、多くの優れた才能が、欧州文化首都の活動で脚光を浴び、その後、活躍の場を世界へと広げることとなった。彼らに問われたのは、国籍ではなく、芸術の質の高さであった。

 

2000年、8都市へ拡大した欧州文化首都

この年、8都市が欧州文化首都に制定され、そのうち、ブラッセル、アビニヨン、サンチャゴ・デ・コンポステーラの3都市で、「第8回EU・ジャパンフェスト」が開催された。人口の過半数を、移民で占めるブラッセルでは、日本をはじめ世界各国の伝統芸能をベースに新たな創作を行い、披露する「ゼネカパレード」が企画された。3,000人のアーティストたちによる「新しい伝統の創造」の試みは、21世紀の文化のあり方に大きな刺激を与えた。アビニョンにおける「ラ・ボーテ(美の祭典)」展は、フランスが総力を結集した美術展となった。また、これに連動し、アジアから「絹の街・リヨン」に至るまで、ユーラシア大陸を横断するかつての「シルクロード」の沿道諸国の舞台芸術を特集する壮大な企画も実現した。日本からは、中村勘九郎率いる歌舞伎、ダンスの勅使川原三郎、伊藤キム、岩手の伝統舞踊「黒川さんさ」が招聘された。地球全体を視野にいれたフランスの構想力と実現へのエネルギーは圧倒的なものだった。
この年の欧州文化首都には、その他の非加盟国のポーランドのクラコウ、チェコのプラハ、ノルウェー、アイスランドのレイキャビクなども含まれた。しかし、新千年紀の始まりとキリスト教の大聖年の祝いとが渾然一体となった「ミレニアム年」に当たり、世界中で繰り広げられた祝賀の喧騒のあおりを受けた形となった。欧州文化首都本来の趣旨が活動に反映されたとは言い難かったとの厳しい批判もあったが、この時の反省から、その後、欧州文化首都のあり方に様々な改革が加えられた。

 

2001年ポルトから、2008リバプールまで

21世紀に入り、欧州統合は加速した。2004年には中東欧の10ヶ国、2007年、ルーマニア、ブルガリアの2ヶ国が加盟を果たし、EUは27ヶ国の大連合へと拡大した。
この時期に入ると「EU・ジャパンフェスト」のプログラム内容も、回を追うごとに、幅の広がりと深化を見せた。断片的となるが、ここでその一部を紹介する。
世界各国の地域独自の文化に焦点を当てるという欧州文化首都の取り組みの一つにポルト(2001年)が取り上げた「琉球組踊」がある。琉球王朝時代からの伝統的な舞台芸術だ。当時、日本国内でも紹介される機会は少なかったが、その後、組踊に特化した国立劇場おきなわが完成(2004年)、また、ポルトで出演した宮城能鳳が2009年に、西江喜春が2011年にそれぞれ人間国宝に指定された。海外での高い評価が、少なからず、国内での活動を後押ししたとも言える。
日本の建築家も度々欧州文化首都に重要な作品を委嘱された。ブルージュ(2002年)では、世界中の建築家のなかからコンペティションで選ばれた伊東豊雄が「伝統と未来の共存」をテーマに、歴史的な旧市街に斬新で意欲的なパビリオンを遺した。また、アトリエ・ワン(塚本由晴・貝島桃代)は、リバプール(2008年)の老朽化した市街地の再開発に挑み、パブリックスペースとしての野外劇場を設計した。いずれも地域を根底から観察し、熟考することから生まれた。
写真分野では、欧州文化首都から派遣された写真家が、日本の各地を撮影する写真プロジェクト「日本に向けられたヨーロッパ人の眼」が継続実施された。また、2005年には、日本の写真家13名が、EU加盟25ヶ国にて、撮影を敢行した。日欧の市民のなかに入り込み、生き生きとした日常の生活に焦点に当てた取り組みは、いずれも双方の地域住民の距離を縮めることに貢献した.

 

2009年ヴィリニュス、リンツから2012年マリボル、ギマランエスまで

この2009年から始まる4年間は、世界経済へ深刻な影響を及ぼした出来事が相次いだ。2009年は前年に始まったアメリカ発の大世界同時不況(リーマンショック)には、いまだ沈静化の兆しが見えなかった。翌2010年には、ギリシャの財政危機に端を発した混乱がユーロ圏全体を揺さぶり、世界経済への影響も懸念された。
地球規模の逆風が続くなか、とりわけバルト3国の二つの都市、ヴィリニュス(2009年リトアニア)、タリン(2011年エストニア)における、欧州文化首都開催には大きな期待が寄せられた。それは、かつて彼らに音楽の力で、偉大な変革をもたらした歴史があるからだ。東西冷戦下の1989年8月のこと。自由と独立を求める人々がタリンから、ヴィリニュスに至る沿道に立ち並んだ。その数は220万人、距離は600kmにも及んだ。人々は、民族の歌を歌い続け、彼らの強固な意思は、やがて強大なソビエト支配の崩壊へとつながった。それは「歌の革命」と呼ばれ、歴史に刻まれた。
「人はパンのみにて生きるものにあらず。」経済の困窮は、人間に多くの試練を与える。こんな時だからこそ、人々の精神に力を与える芸術文化の真価が問われた。ヴィリニュスでは、15,000人を超える市民が、日々の思いや体験を「Haiku」に込めた。リンツ(2009年オーストリア)では、デジタル・アートの30年の蓄積を背景に「アルスエレクトロニカセンター」が新たな拠点を作り、多くの日本人アーティストも参画した。
欧州文化首都は、青少年の活動に目を向けた取り組みも大きな柱となってきたが、その一環として、ペーチ(2010年ハンガリー)、トゥルク(2011年フィンランド)、マリボル(2012年スロヴェニア)、ギマランエス(2012年ポルトガル)においても、国際青少年音楽祭が開催された。日本を含めた各国の合唱団が集い、家庭滞在などを通じて「音楽」以上の交流を深めたが、そこで築かれた「絆」は若者の共通の未来に向かって、貴重な財産になると確信している。
世界中に大きな衝撃を与えた2011年3月の東日本大震災では、欧州各国のアーティストからの支援も相次いだ。長年積み上げられてきた「アート」の連帯は、人間同士の連帯であったことを証明したのだった。

 

終わりに

1993年12ヵ国に過ぎなかったEU加盟国も、現在では27カ国に拡大した。多くの課題に向き合うEUに対して、未来に悲観的な予測もあとを立たないが、欧州統合の歴史を逆戻りさせることが不可能であることに異論は見当たらない。すでに地球は運命共同体となっているからだ。
この20年間で「EU・ジャパンフェスト」は、欧州文化首都30都市(22ヶ国)で開催された。毎年の開催を契機として、日欧のアーティストの往来はより頻繁になり、その累計は、20年間で27,000人を越えた。その後、世界的な活躍へと成長したアーティストたちも数少なくない。また、欧州文化首都での経験を活かし、日本各地の地域活動が大地に根を張るように発展している姿も見られるようになった。

グローバル化の時代を迎えた現代、アーティストに問われるのは国籍でも、肌の色でもない。「芸術」の質の高さである。魂を揺さぶるような芸術には国境はない。一方で、文化の多様性を守ることの重要性は、かつてないほど求められている。人類を起源まで辿って考えると、私たちは、同じ一つの幹から出ていながら、長い歴史を経て、様々な地域や民族のなかに、多様な言語や文化を生み出してきたことに気づく。私たちには、閉鎖的なナショナリストや抽象的で根なし草の「地球市民」のいずれの選択も許されていない。
私たちの未来を考えるとき、順境であれ、逆境であれ、芸術が日々の生活のなかに寄り添い、輝きを放つ存在であってほしいと願う。そのためにも次世代を担う若者のために、大人に何ができるのか、何をすべきか。小さなことからでも実行してゆきたい。若者にとって、「芸術への憧れ」が、「目標」へと変わる瞬間がある。大人が、若者の感性に注意を払い、彼らの芸術活動に必要な試練と支援を与えることができれば、私たちの将来は、とても人間らしいものになるに違いない。 これからの20年に向けて、このことをしっかりと心に刻んで、一つ一つの行動を引き続き積み重ねてゆきたい。