その線を通り抜けて

塩田千春|アーティスト

 2017年度の欧州文化首都に選ばれたキプロス共和国の南西岸に位置する港町パフォス。その町にある洞窟での作品制作は私にとってチャレンジでした。これまでに、ホワイトキューブとは全く異なる自然から成りたつ歴史的空間での展示の経験がほとんどなく、どのように制作できるか不安でした。

 糸を使った作品は、-編む-という行程の中、その糸を固定するため何らかの基盤が必要となります。町の歴史を象徴するその洞窟が文化財であることから、通常私がいつも作品の基盤としているワイヤーなどを洞窟の壁に直接に設置することができなかったため、現地の技術者や建築家と話し合い、壁面になぞらった鉄枠を制作してもらいました。その鉄枠は20x20cmの網目状になっており、その網目を基盤として作品を作りました。

完成作品(写真提供:Pafos2017 ©LARCO)

 赤い線で縦横無尽に編み込まれた「その線を通り抜けて」と題したこの作品は、私たち人間の交差する時間軸、もしくは一個人の歴史や記憶を象徴しています。誰もが時間と空間の中で、自身の時間軸と過去・現在・未来に対するビジョンを交差させてできた親密な現実を作りだします。私たちが生きる現代では、繋がりを絶たれたり、関係が切り離されて紛争を招くなど、本来求めている繋がりとは反対のことばかりが起こっているように思います。

 作品に糸を使用する理由は、もつれたり、切られたり 、結ばれたりといった糸が織りなす関係が、私たち人間同士との関係性にも通じて表現できると思うからです。また、糸を編みこむことによってそのひとつひとつの線が集積されやがて宇宙に広がっていくような限りない空間を生み出すことができます。糸のインスタレーションは視覚で追えなくなった時に初めて完成します。何層も重なったなんとも言いがたい深い空間ができるのです。個人の記憶はまるで脳神経の働きと同じように複雑なネットワークを形成します。作品においても、糸を目で追えなくなった時に初めて、その作品の中にある真実が見える、そんなふうに思っています。 この作品は鑑賞者がその空間でそれぞれの線を見つめて辿り、その先へ向かうことができればという思いを込めて制作しました。

 赤色を使うのはそれが血の色を表し、それによって人間同士のつながりを象徴したかったからです。

赤い糸が複雑に絡み合っている(写真提供:Pafos2017 ©LARCO)

 キプロス共和国という、類を見ない二つの国家が共存している小さな島。北と南で隔たれたその土地の中にいる人々はお互いその向こう側をどのような気持ちで見ているのか…。私が2011年に発表した「ウォール」という作品を思い起こしました。この作品は、私自身の身体に赤い液体が流れるチューブを巻きつけて横たわっている映像作品です。体に巻き付いたそのチューブが血管のように見えます。血液はまるで壁のように機能します。この液体には私たちに関する全ての情報が含まれています。私はこの作品で、私たちが受け継いで血液に流れ込んでいる国籍、宗教、文化といったバックグラウンドが自分たちに深く結びついていることを表したかったのです。壁の一方にはアイデンティティーや国籍があり、もう一方には自由があります。私自身、日本を離れドイツという国に住み始めてから何度も自分のアイデンティティーを探し求めていました。歴史が複雑に絡まった現在のキプロス共和国という国での作品制作を通して、また少し自分のアイデンティティーを強く再認識した気がします。

 作品設置中はパフォスの人々から個々の抱く町への強い繋がりを感じることができました。都市をあげて開催される文化的プロジェクトに対するキュレーターの情熱と愛も感じることができました。彼らは忙しい最中、彼らの生まれ育った町の歴史ある場所を案内してくれたりしました。作品設置中は彼らの持つ強い意志に励まされながら、その作品を仕上げることができました。

仲間たちと共に(写真提供:Pafos2017 ©LARCO) 

 私の作品はどれも、私一人では完成しません。作品自体がいろんな人と繋がりながら形を成していく。糸を編むための鉄枠一つにしても、いびつな形をした洞窟に合わせて鉄枠を制作するのは容易ではなかったことと思います。私が持つ作品のイメージを現地のスタッフと共有し、どうやったら実現ができるかと話し合うところから作品制作が始まります。スタジオにこもって黙々と作品を制作する時もありますが、私がメインとしているインスタレーションという作品では必ず周りにたくさんの人がいます。この「その線を通り抜けて」も、現地で携わってくださった技術者や建築家、またパフォス2017のスタッフ全員が私の作品を実現するため、 惜しむことなく彼らのエネルギーを注いでくれました。そのエネルギーの繋がりがあって初めて形作られていきます。彼らのそのエネルギーがなければ実現しえなかったと心から思います。

著者ポートレート写真©Chiharu Shiota, Photo by Sunhi Mang