事務局からの報告 「25年の活動を振り返って」

古木修治|事務局長

 欧州文化首都は、1985年ギリシャの文化大臣メリナ・メルクーリ女史の提唱によって始められた芸術文化活動で、以来ギリシャのアテネでの開催を皮切りに、毎年欧州各国において持ち回りで実施されてきた。

 当初はEU域内からの参加が主だったが、欧州市場統合後の1993年に開催されたアントワープ以降、日本からの参加が始まった。アントワープは、日本を始め世界各国に協力を呼びかけ、開催国ベルギーは政府レベルでも招聘したアーティストの資金援助を日本に求めたが、交渉は合意に達しなかった。日本の外交スタンスは二国間関係重視であり、欧州各国の連合体のEUとの共同の取り組みは時期早尚であったようだ。

一方で、当時は日欧間の貿易摩擦が政治問題化していた。日本の圧倒的な輸出攻勢に対し、欧州側の経済界からは批判が噴出し、感情的な対立も少なくなかった。それだけに文化面での相互理解の増進が一層求められていた。その事態に、多くのたちが立ち上がった。日本文化に造詣の深かった駐日ベルギー大使パトリック・ノートン男爵をはじめ、欧州各国の駐日大使、経済人、文化人の有志が集まり、欧州文化首都の活動を日本側でも支援しようと設立されたのがNGOのEU・ジャパンフェスト日本委員会である。

 

愛国的な文化や学問は存在しない。いずれも世界共有の財産であり、お互いの刺激を基に未来へと成長してゆく。

       ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (17491832)

 このゲーテの言葉は、文化の根源的な意義に迫っている。二百年以上たった現代においても燦然と輝く至言だ。それは、欧州文化首都活動の存在意義と見事に重なっている。

現在のヨーロッパには、世界中の民族が移り住んでおり、文字通りグローバルな社会を構成し、多様な文化が存在する。30万人以上が日常で使用している言語は260を数えるという。日本語もその一つである。

EUの12ヵ国でスタートした欧州文化首都だが、その後加盟は28ヵ国へと拡大し、グローバル化の進展も相まって、2017年には世界100ヶ国以上が参加する規模へと発展したのは自然な成り行きだった。シェンゲン協定は、ヨーロッパの国家間で国境検査なしで国境を超えることを許可する協定だが、欧州文化首都は、芸術におけるいわゆるシェンゲン協定だ。世界のアーティストは国籍ではなく、アートの質を問われるのである。グローバル化によって、民族や宗教間の対立も顕在化するようになったが、芸術には様々な差異を超越して、人間同士の間に立ちはだかる壁を取り除く可能性が秘められている。

 これまでの25年間、私達の活動は、27ヶ国、42都市で開催された欧州文化首都において展開し、累計で約3万人を超える日本のアーティストや青少年がヨーロッパへ渡った。そこから多くの出会いが生まれ、その後も双方のアーティストが協力し、日欧の各地で活動を継続発展させている。欧州文化首都は、一過性ではない。芸術文化の国境を越えた取り組みであり、長い道のりの出発点なのだ。

 

Can Art save the world ?(芸術は世界を救えるか?)」

 これは、アントワープ1993の芸術監督エリック・アントニスさんが発した問いかけだ。当時、ユーゴスラビア内戦の最中にあった戦火のサラエボ(ボスニア)で続けられていた演劇活動を支援しようと、アントニス氏を始めヨーロッパ中の芸術家たちがキャンペーンを張っていた。彼の言葉は続く。「いや、芸術では世界を救えない。しかし、芸術なくして、人間社会の真の繁栄はない。だからこそ、芸術を通して、一人一人が生きることを見つめ、考え、皆と語り合うことが大切だ。それが、欧州文化首都の精神だ。」

 強く私達の胸を揺さぶったこの言葉は、いまなお欧州文化首都における活動で通奏低音のように響き続けている。

 

25年の活動に貫かれた活動の基本方針

 欧州文化首都と協力し取り組む中で生まれた私たちの「活動の基本方針」は、言わばパートナーシップにおける憲法ともいえるものだ。活動の規範としての役割を果たしてきた6つの基本方針を紹介しながら、この25年間の活動を振り返ってみたい。

 

その1.若者の才能や特性に目を向け、必要な支援を行う。

 リーマンショックに世界恐慌の再来かと世界中に動揺が走った2009年、リトアニアのヴィリュニュスで欧州文化首都が開催された。この国は、1991年にソビエトからの再独立を果たしたが、長く続いた厳しい占領体制化でも、自国の文化を「歌うこと」で守り続けてきた。1989年8月には、エストニアのタリンから、ラトビアのリガ、そしてリトアニアのヴィリュニュスまで600キロに及ぶ沿道にバルト三国の市民200万人が手をつなぎ並んだ。立ちはだかるソビエトの戦車を前に、決死の思いでそれぞれの民族の歌を熱唱した。「人間の鎖」と呼ばれた歴史的なできごとをきっかけとして、この地域での独立の機運が高まっていった。

 そのヴィリュニュスでの青少年音楽祭に鳥取県米子の合唱団「リトルフェニックス」が参加することになった。団の指導者は子供たちにリトアニアで「歌うこと」の意味に改めて向き合ってほしいと考えた。子供たちに、それは生涯を通じての宝物のような貴重な体験となるに違いないと確信していた。当委員会の支援に加えて、団員の保護者達も立ち上がり、資金調達に奔走した。各自が約50軒の家を訪ね歩き、一軒当たり千円の募金活動を展開した結果、地域の約1500人が支援に応じた。

 現地で日本の子供たちはリトアニア人の家庭に滞在し、学校、障害者施設、老人ホームなどで歌い続けた。最終日のメイン会場となった聖カテリーナ教会は再独立後、教会からの寄贈によって文化施設として使われていた。壁に銃弾の傷跡が生々しく残っており、この国の人々の過去の苦難がいまなお目に垣間見える形で残されていた。フィナーレでは、各国の少年少女たちの澄み切った歌声が大聖堂に響きわたった。総立ちの聴衆の反応に日本の子供たちも改めて「歌のちから」を実感したに違いない。帰国後、地元での凱旋公演に集まった大人たちは、団員が晴れやかな表情で堂々と歌う姿に彼らの成長を感じ取っていた。将来、大人になった時、彼らも同様に次の世代の子供たちのために力を尽くしてほしい。その願いはきっとかなえられるに違いない。

  2003年の欧州文化首都グラーツ(オーストリア)は世界遺産の街としても知られる。この年、世界中の世界遺産の地域から参加した高校生たちが、地元の家庭に1週間滞在しお互いの街を紹介し合う中で、どのように地域を守り発展させてゆくかについて議論を交わした。日本からは奈良と広島の高校生が参加したが、世界の高校生と語り合う中で様々な違いや類似点を発見し、同時に共通の未来について白熱の議論を展開した。これらの体験からはすぐに成果が生まれるわけではないが、自分自身や地域の未来について考えるうえで、未知の世界を知り視野を広げることは、彼らにとって学校では学べない貴重な経験となったに違いない。

 子供は社会全体の財産だ。どんな人間でも自分たちの青春時代を振り返れば、先輩達の様々な後押しがあったはずだ。そのことを思い出そう。私たち大人は、次世代を担う若者たちにただ期待するだけではなく、具体的に支援することが大切だ。小さなことであっても、たえず積み重ねてゆくことが求められている。

 

 子供の抱く夢や憧れは、彼らの人生の目標へとつながっている。そのことを見逃さずに、大人が若者の可能性に真剣に目を向け、厳しさと優しさの両方で寄り添うことができれば、将来の社会はとても人間らしいものになるに違いない。

 

その2.地域市民やアーティストの自立を目指す活動を支援する

欧州文化首都は、構想から実現まで10年に及ぶ。しかし、開催は一年間のみだ。一過性の大イベントで終わることなく、その成果を活用し将来へとつなげてゆくためには開催委員会の努力に加えて、地域住民やアーティスト達の自立した持続的な活動の展開も求められている。欧州文化首都への参加が契機となって、アーティストの滞在制作や地域の芸術祭など地域市民が協力し、日欧各地で長期にわたる継続的な活動へと発展している例も少なくない。

ところで、1996年のコペンハーゲン以来続けられて来た写真プロジェクトがある。これは、「日本に向けられてきたヨーロッパ人の眼」というタイトルで、欧州文化首都が写真家を毎年、日本に派遣し、各地域の「人間と暮らし」を作品に収めるものだ。2002年からは、菊田樹子氏がこの芸術監督を務めている。すでに日本の38自治体においてヨーロッパの気鋭の写真家88名が撮影を敢行した。異なる視線によって切り取られた日本の姿は、私たちに新鮮な衝撃を与える。私たちの日常の中で、見えているのに見過ごし、忘れ去られてきたことがいかに多いことかを改めて気づかされる。また、ヨーロッパの人々にとっては、日本の日常がいかに自分たちと異なるかと感じると同時に、私達の生き様に多くの共通点も見出しているようだ。2004年、新たに10ヶ国がEUに加盟した際には、日本の写真家たちが加盟25か国で撮影を行い、統合が進むヨーロッパの各地の姿を追った。将来50年、100年経過したとき、地域の人々がこれらの作品に向き合い、地域の変化を追い、そこから様々な教訓を引き出すことができれば、このプロジェクトは意義ある使命を果たしたことになる。

また、活動の持続性には、それに関わる人間が当事者意識を持ち、自立を目指すことが不可欠だ。当委員会は企業の支援で支えられてきた。それは、CSR(企業の社会的責任)の一環でもある。これに加えて、私はもう一つのCSR(市民の社会的責任)の大切さを問いたい。市民こそ、社会を動かす大きな力を備えているのだから。

そのうえで活動を持続させるために、資金面での自立への努力は不可欠だ。日本を始め多くの国々で高齢化を迎える今日、社会福祉予算は増大する一方で、政府には文化に振り向ける予算の余裕がなくなりつつある。そんななか、インターネットで活動を広報しつつ資金調達を試みる「クラウドファンディング」が昨今盛んになっている。アーティストの自立的な活動を後押しするものであり、新たな時代を切り開く波として、今後一層の拡大を期待している。

 

樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、

それは果実だと誰もが答えるだろう。

しかし実際には種なのだ。-ニーチェ 

 

 当委員会の役割は、種を蒔くことでも苗を植えることでもない。いわば、大地に眠っている可能性を秘めた種子に水を注ぐことだ。そこから、土壌に適応した芽が出て木となり、いつの日か大きな森が作られることを私は信じている。

 

その3.評価の定まっていない芸術の活動に対して、その立場を認め支援を行う

 時代の一歩先を行くこと。社会の矛盾や課題に鋭く切り込むこと。とりわけコンテンポラリーアーティストはそんな役割を果たしているが、しっかりとした評価を得るために長い月日と多くの難関が待ち受けている。

 印象派の巨匠クロード・モネも新たな手法が画壇から認められるまでには遠い道のりを歩まなければならなかった。貧困にあえぐ生活が続いたが、人生の後半になって、やっと新大陸アメリカでの展覧会が好評を博したことから、道が開けたのだった。また世界的な現代音楽家の武満徹も惨憺たるスタートを切った。最初のピアノ曲は、高名な音楽評論家から「音楽以前の作品」と酷評された。

 一方、この25年間に日本欧州文化首都に招聘されたアーティストも、最初から評価が定まっていたわけではなかった。実績がないものの未来への道を開こうとする挑戦的で創造的な視点で選ばれたアーティストも少なくなかった。建築家の妹島和代、ダンスの勅使川原三郎、美術の草間彌生をはじめ、その後、世界を舞台に活動を展開するようになった例も数多い。

 この報告書の巻末では、これまで欧州文化首都に参加したアーティストがその後の活躍によって評価され受賞した今年度の事例を紹介しているので、ご覧いただきたい。

 

その4.グローバル化のもたらす功罪を考えつつ、 芸術文化、精神文化の創造的活動を支援する

 この25年間、情報革命によってグローバル化は一気に進んだ。最新のデータでは、携帯電話のネットワークは世界の人口の95%、70億人をカバーしている。インターネットの利用者数は37億人。ソーシャルネットワークは23億人が利用し、連日35億枚の写真がアップされ、サイトは毎日82万が開設されている。また、Eメールは一日平均1,440億通(そのうち、68.8%が迷惑メール)に上る。改めて、圧倒的な情報化の凄まじさにたじろぐ思いだ。

 人類600万年の歴史の中で、人間は長らく自然の脅威に晒されながら生き抜いてきたが、現代においては、迷惑メールやフェークニュース、ハッキングなどからの脅威の中で私達は暮らしている。昔も今も人間はジャングルに住んでいるのだ。洪水のように押し寄せる情報から身を守ることは大切だ。しかし同時に、過多な情報に依存し、妄信するのではなく、情報革命がもたらした様々な利点に目を向け、それを活用することも求められている。  

 グローバル化によって生じる「格差」「勝者と敗者」という問題は、しばしばメディアの俎上に載せられる。現代社会が抱える課題は経済発展だけでは解決できない。「人間の幸せを促進するものはなにか」というテーマで経済学者フライとスタッツァーが執筆した「幸福の政治経済学」という著書は興味深い。それによれば、戦後のアメリカと日本は、いずれも一人当たりGDPが飛躍的に増えた。にもかかわらず、半世紀で生活満足度にはほとんど変化が見られないかまたは低下している。自分の所得は増えても、他者がそれ以上に増えることによって不満が生じ、それが高じると自らを「敗者」とみなしてしまう。

 一方、発展途上国では、所得と幸福の間にはっきりとした相関関係がみられる。所得が増えれば、幸福度も増す。しかし、一人当たりのGDPの一万ドルが分岐点で、それを超えると両者は単純に正比例しなくなる。収入が上がるにつれ、さらなる所得願望が生まれ、それが満たされないことによって、不幸感が増幅されるのだ。

 10世紀の日本の僧侶、源信は次の言葉を残した。「足ることを知らば、貧といえども富と名づくし。財ありとも欲多ければ、これを貧と名づく。」この名言は、現代の私達に、根源的課題を突き付けている。物質的な豊かさが、必ずしも精神的な豊かさに連動しないと改めて考えさせられる。

 現代をどのように受け止め、向き合い、考えるかは、政治家だけでなく私達一人一人に突きつけられている課題だ。多くの差別や争いは、物質的な問題や表面的・外面的な違いに端を発する。芸術の崇高な点は、人間の内面や精神に訴えることがきることである。経済と文化は社会の両輪であり、経済の発展とともに精神文化の創造的な活動があってこそ、人間らしい社会が生まれる。私達の活動はそんな思いを念頭に続けられてきた。

その5.芸術家のグローバルなネットワークの構築と共同の取り組みを支援する。

 1993年に11億人だった国際旅客数は2016年には37億人に達した。この事実は、人間同士が直に顔を突き合わせて、言葉を交わす機会が急速に増加していることを示している。

 国連の調査によれば、現在の世界の人口は74億人で、一人当たり44人の知人がいるそうだ。この数字から想定できることある。44の6乗-すなわち、すべての人が知人に誰かを紹介する行為を6回繰り返せば、世界中の74億人が繋がるというのだ。

 前述の通り、この25年間を通して3万人の日本のアーティストや青少年が欧州文化首都の活動に参加した。その3万人の各人が、芸術活動を通じて地域に住む人々に繋がってゆくとすると、3万の6乗はなんと729秭人に達する。それは単なる数の遊びにしか過ぎないが、アーティストの活動が人と人のこころをつなげてゆける可能性を考えると、未来に大きな希望を抱かせる数字でもある。

 どんな国でも少なからず行政の縦割りの弊害は存在し、しばしば批判の対象となるが、しかし、それは行政がしっかりと機能し存在している証左でもあり、縦割り批判を繰り返すことだけからは何も生まれない。情報と移動手段の驚異的な発達は、地球上のあらゆる人間同士の距離感を消滅させた。つまり、辺境の地に住んでいても、自分たちが住んでいる場所が地球の中心に存在すると考え、世界中と容易に繋がれる時代を迎えたのだ。

 欧州文化首都の重要な役割は、プログラム策定の過程で当事者たちにグローバルなネットワークの構築を促していることだ。従来の縦割りに加えて、横断的にアーティストがつながりを形成することが求められている。こうした縦横のネットワークから、地域市民やアーティストの行動範囲はさらに広がっている。意志と情熱さえあればお互いが繋がることの障害が飛躍的に少なくなったと言える昨今、ネットワークの質の深化と進化は着々と進んでいる。その取り組みが具体的に進むことで私たちは人間性豊かな社会に近づけるに違いない。

 

その6.伝統文化を守ると同時に深化させる活動を支援する。

 「誰が水を発見したのかはわからないが、それは魚ではないだろう」水の中の魚は、水の存在がわからない。「伝統文化」も然り。それを守ることは大事だが、その中に浸っていると、時代の変化に気づかない限りその素晴らしさは色褪せ、いつしか形骸化の危機を迎える。文化が他国へ伝わりそこで発展する場合もある。「文化」は永遠の存在ではありえない。それは、個人、地域、そして世代が取り組むことによって、徐々に新たな価値を獲得してゆくものである。

以前のことになるが、2002年に当委員会の設立10年を記念して、「グローバル化で文化はどうなる?」というテーマでシンポジウムを東京で開催した。ディレクターを務めた根本長兵衛が2年かけて構想を練り、実現にこぎつけた。総勢17名の世界的知性が一堂に会し、二日間に渡り様々な観点からグローバル社会の未来についての議論を展開した。その時の内容は、16年を経た現在でも新鮮に響く。根本氏の長年の友人であったフランスの社会学者E・モラン氏は、この中で「文化間の対話」について語っている。

対話をするのは文化ではなく人間なのであり、それぞれがある文化や帰属している。対話を可能にするのは好奇心旺盛で他者や異質なものを受け入れる精神を持ち、移動や旅を多く経験した人々だ。文化は固有な文化を守ろうとする閉鎖的な体質と、外部に対し自らを開き自らを豊かにしてゆく可能性の両方を持ち合わせている。いかなる文化もその起源において出会いと共生を体験する。私たちは個々の文化を大切にしながらも地球全体に開かれなくてはなりません。そのことによって、人間同士が理解できるようになり、寛容の精神が生まれる。

グローバル化が進む現代において、モラン氏の指摘は伝統文化の未来について、まさに正鵠を得ている。

ジャズやクラシックが発祥の地から出発し、世界に広まって久しい。同様に日本の伝統文化も、この25年間だけでもその多くがヨーロッパ社会に根付きつつある。ファンロイパイ前EU大統領は俳人としても知られるが、「日本は俳句の発祥の地であるが、俳句はいまや世界の哲学である。」と語っている。狂言は茂山七五三氏に師事したチェコ人の演劇人オンジェイ氏の長年の努力が実り、ヨーロッパに根付きつつある。不条理を含めたすべてを「笑い」によって表現する舞台芸術であることが、狂言がヨーロッパの人々に受け入れられた要因であろう。昨今ではプラハに子供狂言の活動も始まっていると聞く。能舞台や歌舞伎もヨーロッパの脚本家や演出家によって舞台化される例も増えてきた。武道の分野では柔道、空手はもとより、合気道、剣道、弓道など、ヨーロッパの優れた指導者も生まれつつある。西洋文化が日本に染み込んだように、日本の「伝統文化」がその範疇を卒業し、世界に根付く文化となる日も遠くないと実感している。

 

22世紀を迎える子たちのために

日本は世界でもっとも少子化と高齢化が進んでいる国である。1970年には20歳から64歳までの勤労世代8.5人で一人の高齢者(65歳以上)を支えていたが、2015年には2.1人の勤労世代を一人の高齢者を、そして、2035年には1.2人の勤労世代が一人の高齢者を支えなければならない時代を迎えると想定されている。

高齢化という現象は、医療の発達によって人間がより健康で長寿となったことの現れであり、結果として元気な老人が増えていると言える。そこで発想を転換して、大人が子供を支えると考えてみよう。0~19歳までの子供と20歳以上の大人を比べると、一人の子供に対し、大人の数は、1970年に2.1人、2015年には4.7人、そして2035年には6.9人となる。未来はより多くの大人が子供たちのために力を注ぐことのできる時代を迎えることとなる。

昨年の欧州文化首都オーフスでは、「101本の木の公園」というプロジェクトがプログラムディレクターのジュリアナ・エンベルグ氏によって企画され、市立病院の一角に日本の樹木101本が植樹された。この背景には、日本のある老婦人の物語があった。それは彼女が誕生したばかりのひ孫に対面したことから始まる。彼女が生まれたのは第一次世界大戦の勃発の1914年。彼女は、二つの大戦を生き抜き、苦難を強いられた人生を歩んだが、篤い信仰を貫き、幸い子宝にも恵まれた。101歳となった時、彼女は生まれたばかりのひ孫と対面する。望外の幸せに包まれた彼女であったが、ふとあることが脳裏を横切った―それは22世紀だ。自分の人生の大半を過ごした20世紀は、「戦争の世紀」と呼ばれた。グローバル化が進む今世紀は、後世の歴史にどのようにくくられるか未だ分からない。しかし、目の前にいるこの赤子は、平和と健康に恵まれれば必ずや22世紀に到達するだろう。若い頃、21 世紀さえも遠い先でしかなかった彼女にとっては、22世紀は想像したこともない未来であった。22世紀というものが初めて自分の中で身近となり、つながった瞬間だった。

今の社会がより良い将来を迎えるためには、単に政治的な戦略や壮大な技術的目標以上のものが求められる。文化への憧れが私たち一人一人の心の中ではぐくまれると同時に、子供たちの可能性に向き合い、必要な行動を起こしてゆくことができれば、この私達の願いと行動は22世紀へ到達する子供たちへと受け継がれ、必ずや人間らしい社会へと向かうことになる。そう確信できたのも、25年間この活動に共感した人々、支えてくれた人々、そしてともに行動した人々のおかげだ。

心からの感謝を捧げたい。