【第30回事務局報告】この一年、そして、30年を振り返って

古木 修治|EU・ジャパンフェスト日本委員会 事務局長

はじめに

2022年、3年目のパンデミックは収束の兆しを見せてきたものの、ウクライナで戦争が始まった。世界各地でも局地的な戦闘が繰り広げられ、毎日、多数の命が失われている。同時に地球全体では環境破壊も待ったなしの問題だ。このような状況に私たち一人一人は何が出来るのだろうかという問いに対し、出来ることから始める大切さを突きつけられた。

EU・ジャパンフェストは、欧州文化首都との連帯と行動を積み重ね30年目を迎えた。この間、日本から32,000人を超えるアーティストや青少年が53の欧州文化首都に招聘され海を渡った。瞬く間の歳月であった。そこで積み上げられてきたことは、過大評価も過小評価もできないが、人間同士が連帯し国境を越えて刻んだ30年であり、確かな手応えを感じている。

振り返ると、私の脳裏には30年をかけて制作された壮大なモザイク画が見える。一片一片はアーティストや青少年。彼らは人種、言語、宗教などの違いを超越し、出会い、語り合い、刺激を与え合いながら行動を重ね、そこに横たわる壁を崩してきた。それらのおびただしい数の活動の記憶がきらきらと光り、集まり、そして一幅の壮大な絵画が出来上がった。それは、これからも未来に向けて新たな進化と深化を続けてゆくに違いない。

人類の営みは、太古から天災、戦災の歴史であった。しかし、その困難にぶつかる度に乗り越えてきた。活路は行き詰まったところから生まれるものであるのだろう。

柄谷行人氏は、欧州文化首都リエカで著書が翻訳された日本の哲学者であるが、彼は「希望」について、次のように語っている。

「希望とは、楽観的な展望のことではない。絶望的な状況の中でのみ出されるようなものでなければ、希望の名に値しない」

加速度的に進展するグローバル化は多くの問題を孕んでいるが、一方では国境を越えた多くの連帯を生んでいる。そこに私は大きな希望を抱いている。悲観は感情の問題。楽観は意志の問題。そんなことを考えさせられた1年であった。

  

20221月から20233月までの出来事と考えたこと。

パンデミックを巡る欧州各国の状況推移、そして日本。

2022年が明けて早々、私は欧州へ向かった。欧州各国のロックダウンは終了していたものの、引き続き、コロナ感染について極めて厳しい監視体制が敷かれていた。最初の訪問国ルクセンブルクでは、ワクチン接種証明書の提示はもちろんのこと、朝食、昼食、夕食のレストランの入場時に、その場での抗原テストが義務づけられていた。次のドイツでは、1日1回、各都市のテストセンターで24時間有効の陰性証明書を取得し、行く先々で提示を求められた。

一方、すでに欧州のどの国でもマスク着用義務はなく、日本との違いを痛感した。日本では、2年以上マスク着用が当たり前になっていたので、若干戸惑いを感じた。しかし、マスク着用によって、無表情とも言えるミーティングが当たり前になっていた私にとって、マスク姿ではない彼らの表情が感情豊かに見て取れることがとても新鮮に感じられた。

人間は機械ではない。AIに操作される存在でもない。人間はどこまでいっても人間だという当たり前のことを実感できたことが心から嬉しかった。彼らとの会話によって、私の胸の奥底に秘められていた思いが、次々と引き出されるように感じた。

その後、1か月足らずで再訪。コロナ感染への対応が劇的に変化していた。フランクフルト空港でのEU入国手続きでは「ワクチンパスポート」の提示も不要となっていた。コロナの重症化が抑えられているという医学的な根拠に基づいての新たな措置だった。抗原検査も撤廃され、1か月前とは別世界とも思える変容に驚くとともに、ヨーロッパの合理的な考え方とそのスピード感に脱帽した。

2月28日帰国。羽田空港では、PCR検査や係官による健康状況の質問等で長々と時間を要し、入国出来るまでにたっぷり2時間が経過した。同じ質問を異なるスタッフが繰り返し行うことも腑に落ちなかった。そして、陰性が確認された日本人乗客はバスで横浜のホテルへ移送され、3日間の強制隔離となった。私にあてがわれた部屋は、窓がなくベッドが面積の8割を占めていた。床にはまったくスペースがなくスーツケースはベッドの上で開けるしかなかった。隔離期間中、部屋の外に出ることは一切禁じられ、ドアの開閉は、朝、昼、晩3回の弁当を受け取る時のみに限り許された。おまけに、支給された弁当は大量に冷蔵備蓄されていたようで、冷え切ったままの状態で届けられた。そればかりか、一部が腐っていたのか、長旅の疲労も重なってお腹の具合が悪くなり閉口した。このホテルや食事を提供したのは、日本の検疫所だ。何たることかと怒った。

ともあれ、訪日外国人の入国規制も世界各国にくらべかなり遅れたものの、2022年10月から緩和され、長く続いた「日本の鎖国」はようやく終わりに近づいた。

パンデミックの中での芸術・文化の活動

コロナ感染症が世界的に広がり出したのは2020年3月。すぐさま各国政府は対応に追われた。日本政府は、芸術文化は「不要不急」と位置づけ、芸術文化活動は一気に自粛に追い込まれた。

一方、ドイツの文化大臣は「芸術や文化は人間の生命維持装置」と宣言。続いて、メルケル首相は「芸術や文化の活動の維持は、我政権の最優先事項である」と国民に説明した。それらの発言は、ドイツ国民の芸術や文化に対する考えが強く反映されていたものだったに違いない。その声明直後、ベルリン在住の日本人アーティストによれば、国籍を問わずフリーランスのアーティストに対し、活動助成が実施されたとのこと。3月25日にベルリン市から6,000 ユーロ(約87万円)、そして27日には、ドイツ連邦政府から8,000ユーロ(約116万円)が当面の活動助成金として送られてきたという。アーティストの活動は、市民生活にとって大切な「生命維持装置」なのだ。

2022年1月13日、セルビアのノヴィ・サドでは、1年遅れで欧州文化首都が開幕した。コロナ感染が軽症化したことを受け、久しぶりに多くの市民がマスクをはずして街の中心に集まり、盛大な式典が執り行われた。会場となった国立劇場には芸術文化の旗のもと、欧州はもちろんのこと、世界各国から関係者が集まり大変な熱気に包まれていた。当初より、2022年に開催が決定していたリトアニアのカウナス、ルクセンブルクのエッシュは、準備の遅れも心配されたが、それぞれ1月22日、続いて2月26日に無事開幕することが出来た。

ウクライナ戦争で改めて知った欧州の人々の意識

2022年2月24日、ロシアによるウクライナへの侵攻が始まった。その日、私は翌年の欧州文化首都であるルーマニアのティミショアラにいた。午前中、私は欧州文化首都の事務局で打ち合わせをしており、そこでニュースを知ることとなった。日本でも、以前よりロシアによる侵攻の可能性は報道されていたが、私たち日本人にとって、まさかの侵攻開始だった。しかし、ルーマニアの人々の様子は、いつもと変わらず冷静だった。

ウクライナと国境を接しているのに、彼らは動揺していない。

怖くないのか?

確かに平和を望まない人間はいない。しかし、戦乱の歴史を繰り返してきたヨーロッパで生き抜いてきた人々にとって「戦争はかならず起こる」と、日ごろから無意識に覚悟しているのだと実感した。平和が良いか、戦争が良いかという空論ではなく、欧州の人々は常にその日に備えているのではないかと思えた。

その日、打ち合わせを行った地元少年少女合唱団の女性指揮者は、翌年の日本の子供たちとの交流計画について、明るい表情で目を輝かせて話していたが、同時に「実は今とても忙しいの。」とわずかながら厳しい表情を見せた。何故なら、「ティミショアラの姉妹都市であるチェルノブイリから退避してくる市民の受け入れが始まるから。」と穏やかな表情で説明してくれた。こうなったら行動するのみ、と言わんばかりの姿勢に驚かされた。隣国で戦闘が始まったというのに、衝撃を受けている人に出会うことがなかった。緊急事態にパニックとなり、不安をぶちまけることで解決することは何一つない、それよりも出来ることを今はじめる重要性を彼らから学んだ。

その日の午後、次の訪問地であるルクセンブルクへ向かった。ティミショアラ空港の滑走路では、多数の軍用ヘリコプターが轟音を立てて次々と飛び立つ様子を目にした。空港ロビーでは多くの乗客が、腕組みをしながら険しい表情でこの光景に視線を向けていた。戦争が始まったのだ。

ティミショアラの人々に戦争の覚悟はあっても、彼らから恐怖感が伝わってこなかったのは何故か。その安心感の背景には、強大なNATOの存在があるからだ。NATOはアメリカを含む30ヵ国が加盟している。「集団防衛」、「危機管理」、「協調的安全保障」の3つを任務としている軍事同盟だ。

数年前、私はリトアニアのカウナス郊外で、1万人を超えるNATO軍の演習に遭遇したことがあった。延々と続く戦車の隊列によって、地響きのような轟音が伝わってきた。この演習は、2014年のロシアのクリミア侵攻後、危機感を強めたNATOが防衛体制を強化するための一環として頻繁に行われていたものである。2月24日、ロシアの侵攻時には、ウクライナとルーマニアの国境線には、すでに世界最強ともいわれるアメリカ海兵隊が待機していたそうだ。

ウクライナ戦争が始まって以来、日本でも「抑止力」が盛んに言及される昨今だが、それには敵国が到底攻め入っても勝ち目がないと思わせるほどの戦闘態勢を構築しておくことが肝要だという。備えをすることが平和を保つことに繋がるという考え方だ。時に欧州の友人の多くが、異口同音にこんな言葉を投げかけてくる。「日本は本当に大丈夫か?ロシアは北から明日にでも攻めてくるかもしれないし、北朝鮮のミサイルが日本の本土に打ち込まれるかもしれない。ましてや、中国の台湾進攻は、数年のうちに想定されているんだよ。」と深刻な表情で心配する彼らの前に私はたじろぐしかなかった。

日本は世界大戦後、78年に渡って平和が続いている。それが何故可能であり続けているのか、そのことを深く考え、議論されることは少ない。先の大戦の悲惨さを忘れてはならないが、一方で軍隊を持たなければ戦争は回避できる、平和が維持できるとさえ信じている日本人も少なくないのが現実だ。

「永世中立国スイス」の現実を思い出す。スイスは非武装中立ではなく、れっきとした武装中立の国だ。かつて私はスイスの街々を訪ね、スイスの市民防衛の様子を目の当たりにした経験がある。国民皆兵である。各家庭には武器弾薬が供えられていたし、核シェルターは国中のいたるところに設置されていた。また、高速道路の一部は、有事の際に軍用機の滑走路ともなっていて、スイスは日ごろ私たちが抱く観光地のイメージとは異なる徹底した防衛体制を敷いているのだ。徹底した防衛体制は、芸術や文化と同様に人間の暮らしを守るために不可欠であると欧州の国々が考えている。

セルビア初の欧州文化首都開催

 20世紀初頭、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とも言われ、列強の利害対立が複雑に絡まり、各地の民族運動が激しさを増す中、第1次世界大戦はサラエボで起こった事件がきっかけとなり始まった。そして、第2次世界大戦後、長く続いた東西冷戦はようやく終結したものの、その頃、旧ユーゴスラビアの各地で紛争が始まった。その戦いは1991年に始まり、多くの地域が焦土化し、ようやく和平を取り戻したのは2001年のことだった。戦争の爪痕は容易には取り除くことはできないが、セルビアは復興に向けて多大な努力を重ねてきた。それは芸術活動でも顕著だ。

2019年、ノヴィ・サドではEUによる「ユースキャピタル」が開催され、その勢いが後押しとなり2021年の欧州文化首都に選ばれた。セルビアはEUへ加盟していないが、EUの決定により数年に一度、欧州文化首都はEU加盟2か国に加え、非加盟国1か国で開催されることとなり、ノヴィ・サドでの開催が決定した。芸術や文化の活動に国境線はもともと存在しないのだ。

セルビアの中でも有数の大学街であるノヴィ・サドは、未来への創造に取り組む熱い姿勢が感じられる街である。2016年に欧州文化首都開催が決定して以来、2021年を目指して準備が始まり、彼らの視線は、バルカン半島はもちろんのこと、欧州各地、そして日本のアーティストたちにも向けられた。早速、私たちも現地を訪ね、また、ノヴィ・サドからも毎月のようにプログラム準備のためスタッフが来日した。

私はノヴィ・サドを訪問するたび、ドナウ河畔にある橋のたもとに立ち寄った。そこの壁面には1999年のNATOによる空爆で破壊された橋の写真が掲げられ、今なお戦争の無残さを私たちに突き付けている。それだけに欧州文化首都を開催することで、芸術や文化の旗のもと、世界からアーティストが集まることは計り知れないほどの意義がある。

2022年1月13日、コロナ感染のため1年延期となっていたノヴィ・サドでの欧州文化首都が開幕した。前述したが、芸術文化は国家や民族同士の壁を一気に超える。忌まわしい歴史は教訓になっても、未来へ向かって、人類の共通の価値である創造の障害にはならない。ノヴィ・サドで先頭にたっているリーダーのほとんどが、戦争による惨劇を目の当たりにして育った世代だ。それだけに、彼らが新たな未来を創造することに邁進しようとする強い意気込みが伝わってくる。

欧州文化首都リトアニアのカウナス

リトアニアでの欧州文化首都開催は、カウナスで2度目となる。前回のヴィリニュスは2009年。その頃、リーマンショックにより世界の経済が委縮し、日本も少なからず悪影響を受けていた。果たして、この情勢でEU・ジャパンフェストの活動は日本企業からのご支援が受けられるものか、不安が募った。当時の実行委員長をつとめていただいた三菱重工の佃会長(当時)は、ヴィリニュスの状況を見てくるようにと指示した。すぐに私は飛行機に飛び乗った。

ヴィリニュスに到着すると空港は暗く静まり返っていた。聞けば1日前にリトアニアの国営航空会社が倒産したという。果たして、欧州文化首都の活動はどうなっているのか。不安の中で現地の欧州文化首都事務局を訪ねたところ、予想に反してスタッフの雰囲気は活気に溢れていた。

こういう時だからこそ、人々の心を支える芸術や文化の活動は重要だと彼らは張り切っていた。ヴィリニュス滞在中は毎晩のように、コンサート、オペラ、芝居へと足を運んだ。どの会場も満杯で市民の熱気を肌で感じた。リトアニア政府は、この世界的な経済悪化に際し、30%を超える失業者の為にすべての芸術文化プログラムを無料としていた。失業期間中、有り余る時間を使って心ゆくまで芸術文化を楽しんで欲しいとの配慮からだった。

一方その頃、東京の日比谷公園では、連日、食糧の無料配布を求めて失業者たちによる長蛇の列ができていた。リトアニアと日本との違いに思いが至った。戦時下にあっても、大不況下にあっても困窮する人々を支えるのは食料だけではない。芸術や文化も大きな勇気とエネルギーを与え、笑顔を生み出すものだと改めて理解した。その後、リトアニア経済は徐々に回復し、芸術文化活動は以前にも増して活発となった。

それから13年が経過し、2022年1月22日欧州文化首都カウナスが無事に開幕した。パンデミック中の厳しいロックダウン等の苦しさを克服した喜びが街中で繰り広げられるコンサートやパフォーマンスに表れていた。

カウナスは日本とも歴史的繋がりがある。ドイツのポーランド侵攻により、第2次世界大戦が始まったのが1939年9月1日。その4日前、日本の外交官である杉原千畝氏は、日本領事館開設のためカウナスへ赴任した。そこで、ポーランドから逃れてくる多くのユダヤ人迫害の実態を知ることになる。

当時の日本はドイツ、イタリアと極めて緊密な外交関係にあった。杉原氏は、苦悩のなかで迫害されていたユダヤ人に対し、本国の意向に反してビザを発給し5,000人の命を救った。その後、カウナスの日本領事館は1940年8月に閉鎖。そして、同年9月には日独伊による三国同盟が締結され、日本はいよいよ世界大戦へと突き進むことになる。杉原氏の人道的行為について、日本の外務省は戦後も一貫して認めなかった。彼の死後、海外からの批判に押される形で、2000年にようやく河野外相(当時)が謝罪し杉原氏は名誉回復した。

杉原氏が任務に当たっていたカウナスにある領事館は、戦後も記念館として保存されている。杉原氏の偉業は、大戦中ハンガリーにおいて多くのハンガリーのユダヤ人を救ったスウェーデンの外交官ワーレンベルグと並び称されている。1991年のリトアニア再独立以来、日本との交流も年々発展し、2度目の欧州文化首都開催はその流れを加速するものと期待されている。

 次世代のためにできること

私たち大人には、将来の社会の担い手となる若者のために出来ることが数多くある。彼らに期待することはもちろん大切だが、私たちが若者を後押しすることはさらに重要で不可欠ではないか。その行動の一つ一つは小さくとも、その数が増えていけば社会全体で何かを成し得ることに繋がる。大海原に流れ込む大河も上流に遡れば、山中奥深くのたった一滴のしずくから始まるのだ。できることから実行すれば良い。1人で難しければ、仲間を募って行動の輪を作っていけば良いと私は考えている。

子供たちは、成長する過程で未知の世界を少しずつ知っていく。やがて、様々な夢や憧れを抱くようになり、そして、それらが彼らの具体的な目標となった時こそ、大人の愛情と後押しの行動が必要となる。

3年間におよぶパンデミックの厳しい行動制限で、もっとも苦しんだのは子供たちだ。コロナ前、外で仲間と遊ぶことや友達と自由に話すことは当たり前だった。しかし、彼らはこの間に多くの自由を奪われた。老人にとっての3年間は人生のほんの一部かもしれないが、子供たちにとっては、これまでの短い人生の大半を占める3年だったに違いない。そのような状況ありながらも幸いなことに欧州文化首都の各都市、そして、日本でも感染が広がる厳しい環境の中で、子供たちのために工夫を重ね、力を尽くして行動し続けた大人たちが多くいたことをご紹介したい。

1つの例を挙げると、2020年の欧州文化首都アイルランドのゴールウェイと日本の北海道東川町による「青少年音楽交流プログラム」だ。2020年9月に予定されていたこのプログラムは、コロナのために中止に追い込まれた。しかし、関係者は皆、実現を諦めなかった。何より生徒たちがアイルランドで演奏するという大きな目標を持ち、強い気持ちで2年間の練習に励んでいたからだ。

2022年になり、収束の兆しを見せたことで実現の可能性が出てきた。そこで、東川町は町を挙げて協力体制を整え、アイルランド側も指揮者のジェームス・カバナー氏が中心となり、受け入れ体制に取りかかった。そして、事前に指導者が相互を訪問し、具体的な準備を進めたことは、より充実したプログラム作りに繋がった。加えて、この2年間に卒業した生徒、また入学してきたばかりの吹奏楽部員も参加させることは、このプログラムに大きな意義をもたらした。

「練習をともにした全員で行く…」そして、9月に実施と決まったが、新たな障害が出てきた。ウクライナ戦争の影響を受け急激なインフレとなり、航空運賃はコロナ以前の3倍にも高騰していたのだ。しかし、何としても生徒たちの夢を実現させたいとの大人たちの情熱は事態を動かした。2022年9月18日、会場はゴールウェイ大聖堂。満場の観客が見守る中、東川町とゴールウェイの生徒たちによる演奏会が実現した。拍手喝采の中、このプログラムの資金調達に尽力された國部第28回実行委員長ご夫妻の笑顔もあった。両国の生徒たちにとって、この体験は生涯忘れることはないであろう。次はアイルランドの青少年が日本に来る番だ。すでにその準備が始まっている。

 時代を超えて、生き続ける芸術、文化

洋の東西を問わず、ほとんどの文明や文化は最初から存在していたわけではない。西洋文明の源流はギリシャと言われる。現代でもギリシャ哲学は世界に大きな影響を与えている。しかし、5世紀の西ローマ帝国滅亡後、何世紀もの間ヨーロッパ大陸から古代ギリシャの哲学や悲劇は姿を消していた。その間、ギリシャ哲学を学び、大切に継承し後世に伝えたのはイスラム世界であった。中世に入ってイスラムによるラテン語訳がヨーロッパに伝わった。そのギリシャもエジプト文明から大きな影響を受けていたといわれている。

ゲーテは「人と文化の結びつき」について、次の言葉を残している。

愛国的な文化、愛国的な学問は存在しない。いずれもが世界共有の財産であり、過去の遺産に成り立ち、現在の刺激をもとに、未来へと成長してゆくのである。

2023年1月21日、ハンガリーのヴェスプレーム・バラトンで、欧州文化首都の開幕式が行われた。昨年2月のロシアのウクライナ侵攻に関し、ロシアへの立ち位置の違いから、以前にも増してハンガリー政府とEUの間には、わだかまりがある。そのことから、私はEU主導の行事である欧州文化首都について、ハンガリー政府の対応が気になっていた。しかし、実際の開幕行事に参加してみると、それは杞憂であったことに気づかされた。

開幕式の翌日「ハンガリー国歌200年」と銘打った音楽会が開催された。私自身、このプログラムについて「ハンガリーの国威発揚」を意図しているのではないかとの不安を抱いていた。ところが予想に反し地元のオーケストラによって最初に奏でられたのは、何とドイツ国歌であった。それは、ハイドン作曲、1797年オーストリア皇帝フランツ2世に捧げる「皇帝讃歌」として初演された曲の一節であり、後年になってドイツ国歌として引用されるようになった。この曲は、その後、19世紀、20世紀と戦乱の続いたヨーロッパで生き続けた。そして1991年、東西ドイツ統一に際し、正式にドイツ国歌として制定された。音楽は国家間の政治対立、国家の興亡をはるかに超越している。

冷戦時代、東西ドイツではベートーヴェンを巡っても、両陣営の解釈や活用の仕方は異なった。東側では国威発揚の音楽であったし、西側では自由を求めるシンボルの音楽であったことは興味深い。しかし、現在、ベートーヴェンの「交響曲第9番4楽章」は、欧州統合のシンボルとしてEU国歌となっている。「ハンガリー国歌200年コンサート」でもフィナーレは、この第9であったことに改めて音楽の偉大さを実感した。

ところで、ウクライナ戦争が続く現在、私たちは「芸術は、世界の平和に対して、何ができるのか」と改めて問われていると感じる。アーティストたちには、戦争を止めることはできない。さらに戦禍のなかでは、芸術や文化活動の継続にはさらなる困難が伴う。それでも芸術や文化は平和な時だけでなく、苦難をくぐり生き続けてきた歴史がある。

そこで思い浮かぶことの1つは、ホロコーストでのナチス将校たちのことだ。昼間、彼らはユダヤ人虐殺という任務を果たしなら、夜になるとバッハやモーツァルトを楽しむ教養ある人々だった。そこから考えられるのは、芸術文化が表面的なものであれば何もできないが、それが魂に訴えかけるものであれば、歳月がかかろうとも何かを成し得ることができるということだ。平時にあっても、有事にあっても、芸術文化は長い時間をかけて人間に心の豊かさを与えてくれる存在だ。

 過去から、これからの30年を考える

心理学者のピンカーは「私たちは史上最良の時代を生きている」と語る。彼はその背景に人間の持つ合理的思考があったと語る。合理性とは、目標を達成するために知識を使うことと定義している。一時的な逆行はあるが、数世紀の傾向から考えると確かに頷ける。戦争の世紀と言われた20世紀には2つの世界大戦があり、合わせて、8千万人を超える人命が失われた。21世紀に入り、今なおウクライナを始め、世界各地での局地的な戦争は繰り広げられている。しかし、過去の歴史の教訓から、人類は少しだけ学んだのではないか。かろうじて第3次世界大戦へと拡大することは防げている。未来は常に不確実なものだ。だからこそ人間の英知や情熱は大切だ。

1992年、EU・ジャパンフェスト日本委員会がNGOとして設立された当時、EU加盟国は12か国に過ぎなかった。EUに隣接したユーゴスラビアでは紛争が始まったばかりであったし、EU域内でもバスクやIRAのテロも頻発していた。それから30年の歳月が流れ、EUは27ヵ国へと拡大、ヨーロッパ大陸には広大な平和ゾーンが広がった。旧ユーゴスラビアのスロヴェニア、クロアチア、セルビアには和平が訪れ、そして、スペインや英国、アイルランドでは長く続いたテロも収まった。これらの国々では、2022年までに欧州文化首都が開催された。

前述したとおり、芸術で戦争は止められない。しかし、どのような時であっても芸術文化には人々の心を支える力がある。これまでの30年の平和の歩みを考えると、ウクライナでの戦争も必ずや解決の日は来ると信じている。

ギリシャの文化大臣をつとめたメリナ・メルクーリ女史は、欧州文化首都を創設するにあたって次のように呼びかけた。「芸術や文化を通じて、人間一人一人が『生きること』について、向き合い、考え、語り合う機会を作ること。それが欧州文化首都の使命です。」

1985年に開始された欧州文化首都活動に、「EU・ジャパンフェスト」も1993年から連帯に加わった。今では、100以上の国や地域から、アーティストが参加する文字通りグローバルな芸術活動に発展している。これからの30年を考える時、国境を越えて連帯し、行動することの役割が一段と重要なのではないかと考える。

セルビアのノヴィ・サドが欧州文化首都に選ばれた機会に、私は思い立ちバルカン諸国を訪ねた。コソボ、アルバニア、北マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、そして、モンテネグロ。その際には、多くのヨーロッパの友人たちが、現地で会うべき人たちを紹介してくれた。そして、私の想像以上に国境を越えた草の根のアートの連帯は進んでいることを知った。長く戦乱の続いた地域でEU各国のNGOが各地で地元のアーティスト達と連帯していることに大きな希望を抱いた。世界で進む分断は国家間の利害のぶつかり合いの結果だ。

私たちが30年かけて欧州の仲間たちと築きあげてきた連帯は、これからの30年さらに発展し進化してゆくと確信する。私たちの連帯は、国家レベルのようなことはできないが、グローバルレベルで新しい未来を創ることは出来ると確信している。

終わりに

現在進行中のウクライナ戦争は、今後の展開によっては第3次世界大戦になり兼ねない可能性があり世界中に暗い影を落としている。ここに、1950年、時のフランス外相、ロベール・シューマンがフランス国民議会で欧州統合を呼び掛けた演説の一節を紹介する。

世界平和は、それを脅かす危険に見合った創造的努力がなければ、守ることはできない。

シューマンが説いた創造的努力とは、政治家たちだけの課題なのか。そうでないことは、戦争の世紀、20世紀の歴史を振り返れば明らかだ。世界中を戦禍に巻き込んだ惨劇に対し、市民一人一人も少なからず責任の一端を追っている。ヒトラーも国民の熱狂から生まれた。かつての日本の軍国主義もその底辺には貧しい大衆の存在があった。捏造された情報によって始められたブッシュによるイラク戦争の背景には米国民の圧倒的な支持があった。市民による群集心理は、時として歴史に禍根を残す原動力となる。

グローバル社会とは、人類史上初めて出現した状況だ。それは、地球上に住む80億人によって描かれた壮大なモザイク画のようでもある。80億のモザイク一片一片に目を向けると80億通りのドラマがあり生き方がある。マクロの見地からだけでは世界で起こっていることを説明できない。ヘッドラインニュースの数行で、世界で起こっていることを報道している(つもり?)のメディアとは異なる事実、真実がミクロの領域では日々存在しているのだ。

パンデミックが始まった時、困難に向き合い世界中で多くの連帯や助け合いがあった。12年前の東日本の大地震と津波の災害においても、国内外から想像をはるかに超える多くの支援の手が差し伸べられた。ウクライナ戦争が始まって2か月後、私はポーランドで多くの市民たち膨大な数のウクライナからの避難民を受け入れている姿に感動した。これら多くの支援活動は国家レベルだけでは推進できない。市民が一人の人間として選択した結果でもある。

日々生きている中で、私たちの前に立ちはだかるのは、日常的な課題と根源的な課題だ。そのことを意識するかしないかは別としても、この世に生を受けてから、この世を去るまでの間にすべての人間がそれらの課題の狭間でたゆたえども生きている。どんなに科学技術や経済が発展しても、これからの世界が人間らしさを伴うものであってほしいと願っている。

締めくくりとして、この50年間、落ち込んだ時に私を支えてくれた言葉を紹介して筆をおく。

 

もし、私が私のために存在しているのではないとすれば、誰が私のために存在するのであろうか。

もし、私がただ私のためにだけ、存在するのであれば、私とは何者であろうか。

もし、今を尊ばないならば、いつという時があろうか。

「タムルード第一編、ミシュナ」より