「現在性」

奥山ばらば|アーティスト

車の窓から目の前にひたすらに広がる田園風景。

ただただ一直線の地平線。

ハンガリー。

大陸を移動しているということを実感させられる。

日本では見ることのできない風景。

目を逸らすのがもったいないので、車窓からじっと外を眺めていた。

 

ハンガリーの地は歴史的に様々な民族がそこに移り住むことを繰り返してきた。

民族的、宗教的に背負った辛い歴史があるかも知れないが、身体的に、髪の毛の色や眼の色など、様々な民族の特徴が多種多様にミックスされているとも聞く。

 

日本人の起源を辿るとロシア南東部のバイカル湖に辿り着くという説を耳にしたことがあれば、同じミトコンドリア遺伝子を持った民族はバイカル湖から遥か西のキルギスの平原に住み着いたという説も耳にしたことがある。

今自分が生きていることは、先祖たちが遥かな大陸を旅して生きてきたということ。

大平原を流動してはさまざまな旅が繰り返されてきたと想像すると歴史の大きなロマンを感じてしまう。

 

「ボディ・ラディカル」

 

英語のボディという言葉が好きだ。

辞書で調べてみると、生きている身体だけでなく、死んでいる身体をも意味する。また、事・物・人の多数のかたまりや集まり、集合体のことを意味したりもする。

生命力みなぎる晴れやかな活力ある肉体も想像できれば、不気味に脱力し萎れた朽ちた死体の強い磁力も想像できる。

また、身体の「身」という字を調べてみると、女性が妊娠して赤ん坊をお腹の中に孕んでいる立ち姿を象形化したものだそうだ。微かな胎動を伴いながら生命の進化の過程を繰り返す羊水の中に浮かぶ胎児の時間、をテーマとする踊りを想像することもできる。

さらには、生身の身体の背後には連綿と生き繋げてきた先祖たちの身体が連なって立っていると連想しても面白い。

 

英語のラディカルという言葉。

根本的な、徹底的な、という意味を持つと共に、過激な、急進的な、という意味もある。

自らのルーツを掘り下げる、根っこを見つめ直す、辿ってきた背後を振り返ってみる、しかしそれに留まらず、新たに、革命的に、挑発的に飛躍させて前進させるイメージをも連想させる。

 

どちらの言葉も意味に振幅の広さを大きく持っていると思う。

そして、言葉の響きに強さを感じ、深度も感じさせる。

「ボディ」、カラダとはそういう広く深いものなのではないだろうか。

今回のフェスティバルにおいて私は、舞踏という日本で生まれた身体表現の思想が染み込まれたこの身体を舞台上に置いてみた。

舞踏という身体表現はすでに世界中に広がっていて、そして様々な態様を見ることができる。

ハンガリーの地は先人の舞踏家の室伏鴻氏が既に先鞭をつけている場所でもあるが、しかし今回は、遥か東の果ての国から持ってきた「身体思想」を「改めて」ハンガリーの地に置いた、と思っているし、今の時代を生きながらそして今の時代に感化されながら、舞踏という身体表現に取り組んでいる「私の身体」を提示したとも思っている。

 

大きな特徴としては、「かたまる肉体」、というものである。

カラダを晒した様であるかたまる肉体は、強い磁力を発すると思う。

磁力とは、強く視線を集める力であり、逆に視る対象から距離をとらせる力である。

肉体は離れながらに集中観察されることで活きる。

絞り込むように粘着する肉体は、機能的な人間的な体の使い方を排除する。

現代的な日常的な機能的な動きが削がれた、非日常的に原始的にとらえる身体の動きや様は、舞台に載せれば視線を引き付ける力をやはり強く持っていると思う。

そして現代社会において忘れ去られた身振り手振りを取り戻し、身体表現の豊かな可能性を広げる力を持っているとも思う。

終演後、観客であり観察者の皆さんの反応は悪くはなく、観た感想を興奮して握手を求めながら私に直接伝えてくださった方も多数おられた。かたまる肉体、粘着する肉体は、身体表現として観る人々を感化し影響を与え得る一定の成果を上げたのではないかと感じている。

 

今回のフェスティバルにおいては同じアジア地域やヨーロッパの国々のダンサーたちとの交流が得られた。やはり身体を使って表現する者としては多分に感化されるものがあった。

お互いにリスペクトを持ちながらお互いのパフォーマンスを観察し合う機会というものは大変貴重なものだと思う。自らの身体思想についていろいろと考えさせられる点が多々見つかる。

多くの民族や宗教、文化を受け入れてきた地であるハンガリーにての今回の交流を意義あるものにするには、次はどうするか、が重要なことだと感じている。

今を生きている身体で身体表現を担う者として、必要なのは「現在性」であると思う。

今やる強度があるのか、今やる必要性・説得力があるのか。

舞踏という身体表現の歴史を振り返ると、実験的、挑戦的なパフォーマンスを繰り返しながら進化してきたと思うが、しかし、今現在観ても見応えのある強度のあるものは残り得るし、日本に限らず世界各地にても影響を与え得る存在となっていると思う。

能も歌舞伎も落語も伝統芸術ではあるが、現代を担っている方々によって新作も創られながら進化していっている。

「今」は刻々と変化し続けているし、その今を生きている身体表現者はたくさんいる。

舞踏と呼ばれる表現の「外」に舞踏を見つける、そんな姿勢が必要なのではないかと自らに言い聞かせたい。そしてそういう姿勢こそが「ボディ・ラディカル」という言葉に適うものだと思っている。

今後も様々な身体表現が流動し合う場を注意して見つけては参加しながら、舞踏の継承だけに留まらない意識で今後の作品創りに取り組んでゆきたいと思っている。