第31回事務局報告

古木 修治|EU・ジャパンフェスト日本委員会 事務局長

EU・ジャパンフェストは、欧州文化首都のパートナーとして協力を重ね、日本の経済界からの支援により31年間、活動を続けてきた。欧州文化首都は長い芸術文化の歴史の上に立ち、未来を見据えての構想を実現させる息の長い活動だ。グローバル化や情報化が進み、芸術文化は世界中の人々が共有する時代になった。これまでに欧州文化首都における「EU・ジャパンフェスト」に参加した日本のアーティストや青少年は32,000人に上る。彼らのその後の活動は、それぞれの地域や後に続くアーティストへ様々な刺激と影響を与えた。国境を越えた草の根の芸術文化の連帯と行動が未来に向けて持続している。

今回の報告は、私たちの活動の規範である「6つの基本方針」のいくつかに沿って進めたい。

 

若者の才能や特性に目を向け、必要な支援を行う。

あなたの将来の夢は何ですか?

親や教師がしばしば子どもたちへ向ける質問だ。「夢」とは未来に希望を抱かせるもの。大人たちは一応に若者の回答に耳を傾け頷く。多くの夢は成長するにつれ風化することもあるが、中には「夢」が「憧れ」となり、そして「目標」へと変わってゆく場合もある。その時、必要なものは大人たちの理解と後押しの行動だ。大人たちは、現実社会の至るところで実権を握っている。励ましの気持ちや言葉に加えて、具体的な助けがあると更に若者たちの「目標」は「実現」に一歩一歩近づいていく。

さて、若者を後押しすることは活動の基本であり続けてきた。話は遡るが、1994年の欧州文化首都リスボン(ポルトガル)では、歴史から着想を得たプログラムが実施された。1582年、日本のカソリック信者であった大名によって派遣された4名の少年使節団が、ポルトガル宣教師に連れられ日本を出発した。バチカンのローマ法王に謁見すべく海を渡り、はるか喜望峰を回り最初に踏み入れた欧州大陸がリスボンのサンロケ教会だった。3年もの長旅で疲れ切っていた少年たちに、教会の神父たちは献身的に世話をした。やがて、元気を取り戻した少年たちはローマへと旅立って行った。

欧州文化首都リスボンでは、この歴史背景から壮大なプログラムが企画された。それは、真言宗豊山派250名の僧侶による「声明」と地元のグレゴリア聖歌隊が共演するものだった。「声明」はグレゴリア聖歌と同じく無伴奏の伝承音楽で、お経を旋律で唱えるものだ。かつて、日本の少年たちを受け入れたサンロケ教会が会場となり、東西の祈りが宗教の違いを超え、声明とグレゴリア聖歌隊として舞台に立った。

そして、欧州文化首都は歴史を振り返るだけでなく、現在そして未来への思いをこれからの活動に託すべきだと考えた。412年前に日本から4名の少年使節がやって来たお返しに、今度はポルトガルの少年たちを日本へ送り、両国の少年たちの交流が出来ないか考えた。そこで、浮かび上がったのは少年サッカー交流である。当時、日本は8年先のワールドカップを目指し国際的招致活動を始めていた。しかし、日本ではプロサッカーは盛り上がりを見せ始めていたものの少年レベルでの国際交流は殆ど行われていなかった。サッカーという文化が日本で根付くためにも、少年たちの存在は大切だと考えた。それだけにこの構想は時宜を得たものだった。すぐさま、欧州文化首都リスボンの委員長ヴィット―ル・コンスタンチオ氏が動いた。彼はポルトガルサッカー協会に働きかけ、ポルトガルユース代表チームを日本へ派遣し日本国内で交流試合を行われることとなった。1994年8月、18日間にわたり日本各地で6試合の熱戦が繰り広げられた。最終戦の相手は日本ユース代表チームだった。このプログラムは「EU・ジャパンユースサッカー大会」として以降も毎年の欧州文化首都の開催国からユース代表チームが来日し、少年サッカーの国際交流が定着するまで10年間続けられた。この間、累計で39試合が行われ13万6,500人の観客を集め、日欧の3,042名の選手が出場した。同時に開催された欧州ナショナルチームのコーチによる少年サッカー教室も盛況で43会場で5,805人の日本の少年たちが参加した。あの頃、少年たちにとってサッカー先進国との国際試合は憧れであった。その後、彼らの体験は日本サッカーの国際的な活躍にわずかでも繋がったのではないかと思う。2002年の日韓サッカーワールドカップの日本代表の8割がこのEU・ジャパンユースサッカー大会に参加していたのだ。もちろん、本プログラムの成功は、日本と欧州各国のサッカー関係者の熱意と努力があってのことだったが、EU・ジャパンフェストとして、後方からわずかながらも後押しできたことは私たちの誇りとなった。

次に青少年の音楽活動に触れたい。音楽は世界の財産であり共通の言語だ。1999年から「国際青少年音楽祭」と銘打って始まった本プログラムは、欧州文化首都や日本各地で双方の少年少女の音楽団体が家庭滞在をしながら、コンサートホールだけでなく、様々な施設で活動を展開している。老人ホーム、学校、障がい者施設、中には幼年の末期癌患者施設での演奏の機会もある。合唱団の青少年たちは会場に集まった観衆の真剣な眼差しを感じ、音楽の意味を考えるようになった。彼らはこの忘れられない体験を通じて、社会の現実を知り、音楽の可能性を再確認するとともに生涯の友人を見つけたのだ。

 

2023年度は3つの少年少女合唱団が欧州文化首都に招かれた。

5月、米子の山陰少年少女合唱団リトルフェニックスは、2022年度の欧州文化首都カウナス(リトアニア)を訪問。滞在中には日本の外交官・杉原千畝の記念館でも演奏した。杉原は第2次世界大戦直前にナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人たちに通過ビザを発行し5千人の命を救った。この人道の歴史の場で歌ったことは、子供たちにとっても意義深いことだった。リトルフェニックスの指揮者は原礼子さん。自治体の支援が必ずしも受けられる環境ではなかったが、51年間にわたってこの民間の合唱団を指導してきた。会場確保から資金調達まで活動の継続には多々困難があったと想像に難くないが、合唱活動を通じて子供たちの心の豊かさと強さを育てようと半世紀以上にわたって努力を重ねてきたことに心からの敬意を表したい。

同5月、所沢フィーニュ少年少女合唱団が2023年度の欧州文化首都ヴェスプレーム(ハンガリー)で行われた欧州青少年音楽祭(European Youth Music Festival)に参加した。フィーニュ(Fény)とはハンガリー語で「光」という意味。「歌うことを通じて一人一人がその子らしく輝きますように」との願いをこめて名付けられた。指揮者のメイジャー佐知子さんは、学生時代にハンガリーで音楽教育者のコダーイ・ゾルターンの理念を学び、帰国後、合唱団を設立した。今回の音楽祭参加に備え、現地で歌うハンガリー語の歌の練習も重ねた。私はフィーニュがブタペスト空港に到着した際に立ち合うことができた。到着ロビーにはハンガリーの受け入れ家族が出迎えていた。日本の子供たちは長いフライトの疲れも見せず、ハンガリーの皆さんに向かってすぐさま歌声で感謝の気持ちを表した。その瞬間、笑顔の輪が広がった。人種や歴史の違いを乗り越え、双方の距離が一気に縮まってゆくことを実感した。

9月には、広島から千田パンフルート合唱隊が2022年度欧州文化首都ノヴィ・サド(セルビア)と2023年度欧州文化首都ティミショアラ(ルーマニア)を訪問した。パンフルートとは木管楽器の一つでギリシャ神話の牧神パーンが吹いたことに由来しルーマニアで発展した楽器だ。千田とは広島の小学校の名前。1945年8月6日アメリカにより投下された原子爆弾の爆心地近くに位置していた。校庭に植えられていたカイヅカイブキの大木は奇跡的に戦後60年以上も生き残った。しかし、ついにこの被爆樹木が命尽きた時、この大木の命をどうやって繋いでゆくか地元住民が議論した。その結果、107個パンフルートが制作されることとなった。この合唱団は、パンフルートを演奏しながら歌うのだ。

最初の訪問地ノヴィ・サドは、1999年のコソボ紛争の際NATO空軍の爆撃を受けた都市だ。ドナウ川にかかっていた橋は破壊され多くの犠牲者が出た。ここでの野外コンサートには多くの市民が駆け付けた。地元の指導者や大人の多くは24年前の空爆から生き延びた人たちであった。演奏する合唱団の背景のスライドには、被爆樹木の姿や現在の広島の姿が映し出された。最後に地元合唱団との合同の演奏が終わると、満場の観衆は立ち上がり惜しみない拍手を送り続けた。多くの人々の頬は涙に濡れていた。戦争体験の記憶がまだ生々しいノヴィ・サドの人々にとって、平和の尊さを改めて心に刻んだことだろう。舞台上から目の当たりにした観衆の表情から、広島の子供たちも多くのメッセージを受け取ったに違いない。恐らくこの体験は、彼らが大人になっても様々な場面で蘇ることと思う。彼ら自身が今度は次世代の子供たちのために何らかの後押しすることを期待している。

前述のカウナスでの音楽祭はパンデミックなどの影響で1年遅れて実施され、2022年の平野信行第30回実行委員長も同行された。カウナス滞在中、平野実行委員長はプログラムの合間を縫って地元の様々な人たちと話す機会を持った。欧州文化首都が地域市民やアーティストとともにどのように準備され、そして、開催終了後、どのように継続されてゆくかに関心を抱いた。「これはまさにボトムアップの活動ですね。」とカウナスを後にする際、私に語ってくれた。

ノヴィ・サドとティミショアラは、本来2021年の欧州文化首都開催都市だった。2021年の隅修三第29回実行委員長は、2年遅れで前述の広島の合唱団と共に両都市を訪問した。広島の子供たちは、長旅の疲れ、パンデミック期間のマスク着用で免疫力が低下、加えてセルビアの大気汚染も影響したのか全員高熱を出してしまった。その事態に、受け入れのノヴィ・サドのご家庭の皆さんは、夜を徹して我が子同様に看病を続けてくれた。おかげで広島の子供たちは回復し、3日後のコンサートには全員が参加を果たし、ノヴィ・サドの観衆に感動というプレゼントを渡せたのだった。隅実行委員長は一連の様子を心配しながら、逐次見守った。コンサートが大盛況に終了した時に地元の観衆の感動の拍手の中で、心からの満足感を湛えた実行委員長の表情は忘れられない。実行委員長としての責任の一つを果たしたという安堵の思いが溢れていたように見えた。

若者の思いを大人たちが後押しすることの大切さを念頭に隅実行委員長、平野実行委員長それぞれに資金集めに走り回ったが、その努力が実を結んだと実感できた瞬間だった。

もう1つの訪問地ティミショアラへは、陸路で向かった。セルビアとルーマニアの国境ではパスポート検査があった。子供たちはバスから降り徒歩で国境を渡った。島国日本では経験することのない国境通過に子供たちも緊張し、陸続きの欧州大陸の現状の一端を実感したに違いない。ティミショアラは、かつてハンガリー王やハプスブルグの支配下に置かれた歴史もあり、この都市ではハンガリー語を日常的に話す市民も多く、広島の子供たちの受け入れもハンガリー語の学校の合唱団であった。ティミショアラの町の中心の広場には、カソリック、ルーマニア正教会、ユダヤ教、イスラム教の教会を見ることができる。まさに東西南北の文化の十字路である。異なる宗教、言語、文化が共存していることが見て取れる。様々な違いがあってもお互いが学び合えば、社会は多様性に溢れるものとなる。日本の若者たちが、グローバルな視点でも自分たちの未来を考えてくれることを期待したい。

一方、欧州から日本を訪問した事例も紹介したい。2024年3月ブルガリアからデツカ・キトカ合唱団が来日した。彼らは2019年の欧州文化首都プロヴディフが開催された際、日本の子供たちを受け入れた合唱団である。翌2020年に来日の予定だったがパンデミックのために延期となっていた。その後、この合唱団がウクライナの戦禍に苦しむ人々のために、クラウドファンディングを展開した際には日本の合唱団も協力した。合唱団同士の連帯は続いていたのだ。デツカ・キトカ合唱団の受け入れは、4年前にプロヴディフで交流した所沢のフィーニュと米子のリトルフェニックスが行った。準備段階から実施に至るまでのほとんどの作業が合唱団同士で行われ、受け入れ地域市民や自治体の協力も協力してくれた。

欧州文化首都から始まった「国際青少年音楽祭」の取り組みも25年経った。私たちの活動の基本方針の一つである「地域市民やアーティストの自立を目ざす活動を支援する」ことが着実に実現しつある。大人たちが若者を支援するために、あらゆる不都合を乗り越えることができれば、若者たちの未来はきっと人間らしく心豊かなものとなると確信している。

 

評価の定まっていない芸術の活動に対して、その立場を認め支援を行う

前述のとおり、「EU・ジャパンフェスト」の活動に参加したアーティストや青少年は31年間で32,000人に上る。参加者の多くは、欧州文化首都側の独自の調査や交渉によって選ばれ、その過程でEU・ジャパンフェストは、アーティストの推薦や選考には関らず、リサーチなどの渡航支援を行うにとどまる姿勢をとってきた。

2024年3月28日、東京において2019年から2028年までの欧州文化首都14都市の代表者によるアーティストのためのプレゼンテーションが行われた。昨年同様、今年も熱気に包まれる雰囲気で始まった。各都市の狙いは新たなアーティスト情報の獲得、一方、アーティストは欧州文化首都で活躍することを希望し、事前に当委員会のアーティストデータバンク「Meet Up ECoC」に登録を済ませていた。これまで度々欧州文化首都に招聘されてきた現代アート作家の加藤かおりさんも登壇した。彼女はアーティスたちに対し「機会は待たない。あなた自身で作るのです。」と国際体験のまだないアーティストたちへ熱く自分の経験からの思いを語った。

今年、建築家の山本理顕氏が「建築界のノーベル賞」と言われるプリツカー賞を受賞されることになった。この賞は1979年にアメリカのハイアット財団によって創設されたもので、建築を通じて人類や環境に一貫した意義深い貢献をしてきた存命の建築家を対象にしている。これまでに、日本人受賞者は最多の9人で、そのうち山本氏を含む6人が欧州文化首都にもかかわった建築家であった。山本氏は共同体の在り方を問い続けている建築家だが、2000年の欧州文化首都ブラッセルでは地域再生のプロジェクトに携わった。日本人建築家が関わった欧州文化首都のプロジェクトはいずれも5年から10年の期間をかけて準備されていた。そのほかの各受賞者が関わった欧州文化首都も紹介したい。

磯崎新氏(テサロニキ1997)、妹島和世氏・西沢立衛氏(ストックホルム1998) 、伊東豊雄氏(ブルージュ2002)、坂茂氏(コーク2005)

彼らはすでに世界的な建築家となっている。しかし、特筆すべきは、欧州文化首都が彼らに初めて声をかけたのは、彼らがまだ無名に近い存在であった時代のことだ。まだ評価が定まっていない時代に彼らの才能を見抜き登用した。

他にも多くの分野で早い時期から欧州のキュレーターに才能を見いだされ、その後、世界的な活躍の展開に繋がったアーティストや団体は数多く存在している。紙面に限りがあるのですべてを紹介できないので一部のアーティストのみを紹介する。

美術界では、草間彌生氏、塩田千春氏、奈良美智氏、会田誠氏、舞台芸術や音楽では、山海塾、鈴木忠志 氏、勅使川原三郎氏、伊藤郁女氏、梅田宏明氏、池田亮司氏、太鼓集団「倭」、文学の多和田葉子氏、写真の澤田知子氏、米田知子氏、ロボット工学の石黒浩氏など枚挙に暇がない。彼らのその後の活躍は、社会が即座に関心を示さず評価の定まっていない活動が大きな可能性を秘めていたことを証明している。それは次世代のアーティストたちに勇気を与えるものとなっている。

 

芸術文化のグローバルなネットワークの構築と共同の取り組みを支援する
1993年の設立以来、EU・ジャパンフェストは54都市の欧州文化首都と協働してきた。開催国はEU加盟27か国と非加盟国のトルコ、英国、ノルウェー、セルビアで合計31ヵ国に上る。当初、参加国は限定されていたが、その後、情報化、グルーバル化の進展の中で現在では100を超える国や地域からアーティストが集うまでに拡大した。加えて、欧州文化首都は準備の段階から、開催後の継続活動まで続く息の長い活動となっている。芸術文化には国境はない。欧州文化首都で問われるのアーティストたちの国籍ではなく、彼らの才能やの未来に向けた創造性である。

2023年度は100名を超える日欧のキュレーターやアーティストがリサーチや交渉目的で往来した。この報告書でも彼らのレポートの一部も掲載されている。双方の地域に密着しローカルでグローバルな取り組みに繋がっていることは今後のグローバルなネットワークの構築に大いに期待が持てる。重要な情報はネット上だけにあるのではない。むしろ、アート活動の現場を訪ね、人間同士の直接の対話によって成立する人間関係にこそ重要性がある。

昨年10月には2024年の欧州文化首都タルトゥ(エストニア)で過去から未来の欧州文化首都関係者が一堂に集まってのミーティングが4日間にわたって行われた。当委員会のプログラムディレクターの箱田さおりも招かれたが、このECoCファミリーミーティングでは、活動の現場での課題、今後のネットワークの強化などが議論された。タルトゥは、ロシア国境から40キロの都市である。現在の国際情勢下にあって、人間同士の絆、世界的連帯を深める行動の意義は極めて重要だと改めて実感する。

 

伝統文化を守ると同時に進化させる活動を支援する 

 

愛国的な文化や学問は存在しない。いずれもが世界共有の財産であり、

お互いの刺激によって未来へと発展してゆく

ゲーテの言葉

 

日本を発祥の地とした武道は世界各地へ広がっている。現在、日本の武道人口は250万人とされるが、世界では5,000万人を超えている。2か月前に訪問した2028年の欧州文化首都ブールジュ(フランス)でお会いした市長は、長年、柔術の稽古を重ねており、すでに黒帯を有していた。日々の繁忙の中で、柔術は自分の精神性を深めることに繋がっていると話してくれた。伝統文化は国境を越えて世界に広まり、根付き、深化する時代を迎えている。欧州文化首都でも、日本の伝統文化に目を向け、未来への挑戦を試みる活動が年々高まっている。数多くの事例から2つを紹介したい。

欧州文化首都ヴェスプレームの一環として行われた陶芸プロジェクトは、ハンガリーと日本の陶芸家が互いの伝統文化を深化させる制作を行った。テーマは茶道。ハンガリー人の眼で見た茶道の真髄が茶碗の作品に活かされ大変興味深かった。このプログラムは2024秋には欧州文化首都バートイシュル・ザルツカンマーグートにおいて、ハンガリー、日本の陶芸家とともに継続される予定だ。もう1つは、過去の欧州文化首都でたびたび取り上げられてきた日本の伝統笑劇の「狂言」の新たな取り組みである。この伝統文化の原型は8世紀まで遡る。「狂言」は庶民の日常や逸話を題材に人間の姿を滑稽に描くとともに社会の不条理についても「笑い」をもって俎上に上げる舞台芸術だ。チェコのヒーブル・オンジェイ氏は、25年前狂言師の茂山七五三氏のワークショップですっかり狂言の魅力に取りつかれてしまった。以来、「狂言」の修行を重ねてきた。そのような経験を積んだ彼に、日本の教科書制作会社が高校生の英語の教科書に日本の伝統文化の奥深さを解説することを依頼した。10ページに渡り展開した内容には、チェコの社会に根付いた「狂言」への深い愛が溢れていた。

 

分断を越え、時代を超えて続く芸術や文化

芸術文化は時にしなやかに、時に忍耐の中で、その存在を守り続けてきた。正にそれを象徴とする文化活動の一端を見つけることができた。それは、2つの都市が共同で2025年の欧州文化首都の開催準備を進めているノヴァ・ゴリツァ(スロべニア)とゴリツィア(イタリア)である。イタリア北部に位置し、1000年もの歴史を持つ両都市が戦争によって分断されたのは第2次世界大戦後のこと。1947年に東側はチトーによるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の領土となり都市名がノヴァ・ゴリツァと命名され、西側のイタリアのゴリツィアとの間に国境線に壁が建設された。東西冷戦はこんな地方都市でも展開されたのだ。しかし、この地域は長い歴史によって、一つの文化圏を形成していたことが功を奏して政治による分断は長く続かなかった。1961年には西側と東側に築かれていた壁が撤去され、この地域の人々は自由に往来できるようになった。私はこの史実に驚いた。1961年と言えば、アメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営の西側とソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営の東側との対立構造が厳しさを増していた時期だった。チトー率いるユーゴスラビアは、ソビエトとやや距離を置いていたものの社会主義陣営の一員であったからだ。

その後、芸術文化を共有する地域は再び人々の往来が可能となり、以前の心の豊かさを取り戻した。あの東西冷戦の対立が続く中、そのような例外が可能になった背景には様々な要因があるだろう。しかし、芸術文化の絆は政治の対立を乗り越えて生き残ったことは確かだ。さらに言えば1961年は、東西冷戦の象徴ともなったいわゆるベルリンの壁の建設が始まった年だ。この壁は1989年ベルリンの壁崩壊まで、東西を分断し続けたことに照らし合わせると、ノヴァ・ゴリツァとゴリツィアの壁撤去の事例は驚くべき例外である。それは芸術文化の連帯の勝利ともいえる。

昨年、現地を訪問した際、ノヴァ・ゴリツァの市長から伺った話は実に興味深かった。彼の祖父は1905年に生まれ1997年に他界した。驚かされたのは、92年間の人生で10冊のパスポートを持ったという事実。即ち、生涯でこの地域の支配者が10回も交代したということになる。晩年はスロヴェニアの統治であったが、1992年まではユーゴスラビア、第2次世界大戦中はナチスのヒトラー、さらに遡るとイタリア国家ファシスト党のムッソリーニの支配下にあったのだ。激動の政治環境が続いたにも拘わらず、この土地の芸術文化は変わらず、彼の92年間の生涯で通奏低音のように響き続けたのだった。洋上で暴風に荒れ狂う大海原も、海面下深くの深海では静かで豊かな自然の恵みが存在し続けることを想起させる。芸術文化はどんな国家より、長い命が与えられ人から人へと伝承されてゆく。 

 

市民が果たす役割

国際条約は強国同士にとって都合が良い場合は守られるが、不都合が生じると破綻が生じることは歴史が証明している。一方、戦争を繰り返した欧州大陸にはEUという広大な平和ゾーンが広がっている。もはや加盟27か国内でお互いの侵略はあり得ないと考えられていることは万人が認めるところだ。戦争を繰り返した悲惨な歴史への深い反省の結果、強力な政治のリーダーシップによって進められた統合だ。しかし、その背景には欧州市民が果たした大きな役割があったことを忘れてはならない。その一例として、独仏青少年プログラムがある。1963年ドゴール・フランス大統領とアデナウアー西ドイツ首相の間で締結された独仏協力条約(エリゼ条約)に基づき始められたのが独仏青少年プログラムである。3歳から30歳までの両国の青少年が毎年20万人規模での交流が始まり、現在までに1,000万人以上が参加している。この活動の積み重ねによって両国間の偏見や誤解は取り除かれた。強い信頼のネットワークが広がり欧州統合をけん引した。次世代を担う両国の青少年に託した信頼のネットワークは半世紀以上の歳月をかけて見事に開花したのだ。このプログラムはさらに深化と進化を進めている。フランスのイスラム系移民とドイツのトルコ系移民の交流も始まり、重層的な活動へと発展している。マクロの見地で政治家が俯瞰しても目の届かないミクロの領域がある。日々の生活の中で、隣人同士が絆を結ぶということこそ重要だ。市民の強い意志と行動が政治と連携し欧州連合という平和な社会が生まれたのである。

 

終わりに

人類は太古の昔から現代に至るまで、ずっとジャングルに暮らしてきた。かつては猛獣の脅威にさらされていたが、現代は夥しい情報のジャングルの中に生きている。今後の成り行きではAIが人類にとっての脅威になるしれない。だからこそ、人間らしく生きるためには芸術文化、そして哲学は不可欠なのだ。本当に大切なことは目に見えない。心で感じるしかないのだ。