コラム
Columnダンス|モダン|ダンス 伊藤郁女との協働を振り返って
私たちがダンス|モダン|ダンス 2025フェスティバルに伊藤郁女氏をケムニッツに招いた際、その目的は大胆ではありましたが、必要不可欠なものでした。それは、私たちの街で、子ども向けのコンテンポラリーダンスを根付かせる手助けをすることです。そのような活動はドイツ国内ではまだ非常に稀であり、私たちはその空白を、人々の文化への関わりを拡げ、ダンスを通じて新しく、有意義な出会いを育む好機と捉えました。
伊藤氏は日本文化に深く根ざしながらも、言語や伝統の交差点で創作活動を行い、言葉にならないものや目に見えないものに語りかける、ハイブリッドな振付の語彙を築き上げてきました。伊藤氏の『Waré Mono(割れ物)』プロジェクトは、「壊れやすいもの」あるいは「壊れてしまうもの」という意味を持ち、日本の金継ぎ(壊れた陶器の継ぎ目を金で修復し、美しさの一部として見せる技術)に着想を得て制作されました。

初期の打ち合わせの段階から明確だったことは、伊藤氏のアプローチが、芸術的に厳格であると同時に、深く人間味にあふれたものであるということでした。伊藤氏はこの公演を、子どもたちがただ「鑑賞する」ものではなく、「身体で体現する」参加型のものにしたいと考えていました。開演前には、パフォーマーであるノエミ・エットリン氏とイシュー・パーク氏によるワークショップが行われ、子どもたちはステージに上がり、一緒にウォームアップしながら、後に実際の舞台で披露するダンスステップを学びました。それは単なる付け足しではなく、作品のドラマトゥルギー(構成)に欠かせない重要な要素であり、修復・学び・そして「ともにあること」を体験する、共同の儀式だったのです。
ケムニッツでの初演当日、会場の席は売り切れとなりました。私たちは家族連れを想定して宣伝を行っていましたが、来場者の多くは高齢の方々であり、予想外の結果となりました。当初、作品のコンセプトが適切に伝わらないのではという懸念の声も一部に上がりましたが、開演とともにステージ上の人形がバラバラになるという幕開けに、会場全体が静まり返りました。二人のダンサーの掛け合いは、率直で感情を揺さぶるものでした。互いに近づいては拒み、挑発しては和解するーそうした身体的な対話は、人間関係や子ども時代の心の傷を映し出すものでした。

そのような観客の反応を目の当たりにして、私たちは『Waré Mono』のテーマが普遍的なものであることに気づかされました。子ども向けに制作された作品でありながら、大人の観客にも深い感動を与える内容でした。人形劇、繊細な音響設計、表現力豊かな動き、そして静けさや身振りに焦点を当てた演出が複層的な体験を生み、観る側それぞれに自由な解釈を促しました。
最も印象的だったのは、終盤に披露されたイシュー・パーク氏による素晴らしいブレイクダンスのソロパフォーマンスです。その驚異的なスピードと精密さに、観客全体が息を呑みました。その後、ワークショップに参加した子どもたちがステージに戻り、プロのダンサーたちと一緒に踊りました。会場は大きな拍手に包まれ、多くの高齢の観客が目を輝かせながら、子どものような驚きと喜びに満ちた表情を見せていました。
その瞬間こそ、このプロジェクトの真の成功であったと感じています。作品は世代の垣根を越え、子どもを対象にした企画が、結果的にはあらゆる世代のためのものとなりました。人と人とのつながりの壊れやすさと美しさ、そして修復の可能性を思い出させてくれる、世代を超えた体験となったのです。
私が特に印象的だったのは、伊藤氏の持つ、文化の特異性を保ちつつ、広く通じる普遍的な意味を作品に持たせることの出来るバランス感覚です。金継ぎの比喩は日本独自のものですが、その意味するところは世界の人々に通じるものです。破壊や分断、そして再生の歴史を持つケムニッツという街において、「傷を隠すのではなく、受け入れる」という考え方は、特に深い共感を呼び起こしました。

個人的には、伊藤氏が参加型であることに強くこだわった点に感銘を受けました。このワークショップは、いわゆる観客への働きかけにとどまらず、作品の構成そのものを形づくる重要な要素でした。コンテンポラリーダンスの新たな観客層を育てていくためには、特に子どもたちが能動的に関われるような、意味のある方法を提供することが重要なのだと教えられました。
このプロジェクトを通して、いくつかの課題も明らかになりました。私たちの広報戦略は子どもとその家族を対象としていましたが、実際の観客層は高齢者が中心でした。しかし、これは失敗ではなく、観客開拓における学びであると私は考えています。私たちの主な「ターゲット層」ではなかった方々の間にも、洗練されていながらも親しみやすい作品への強いニーズがあるということが示されたのです。
今後を見据え、この協働は今後のパートナーシップの強固な基盤となるものです。私たちは特に、伊藤氏の次回作に大きな期待を寄せています。次回作は、日仏共同制作で、日本の山間部における擬音語と犠牲の儀式を探るという、映画『楢山節考』から一部着想を得た作品です。この作品では、母親の死後、弟が自らを犠牲にしなければならなくなるという物語が描かれます。
このテーマは、大胆で文化的に特異なものであり、ドイツの観客にはなじみが薄いかもしれません。しかしそれゆえにこそ、「世代間の責任」「貧困」「ケア」という重要な問いを喚起するものになると信じています。私たちはすでに、伊藤氏を次回のダンス|モダン|ダンス フェスティバルに再び招待することについて話し合っています。2026年に開設予定のダンス|モダン|ダンス センターは、このような異文化・学際的な作品の共同制作パートナーおよびレジデンシー受け入れ先としての役割を担っていく予定です。
伊藤氏との協働は、決して平坦な道のりではありませんでした。信頼、柔軟性、そして異なる文化や美意識への理解と受容が求められました。しかし、その経験は非常に価値のあるものでした。伊藤氏が子どもたちを単なる観客ではなく、主体的な参加者として迎え入れた姿勢は、私たちに新たな視点をもたらしました。そして、彼女の芸術的な厳しさは、若い世代向けのダンス作品に対する私たちの思い込みを見直すきっかけとなりました。
より広い視点で言えば、このプロジェクトを通して、子ども向けのコンテンポラリーダンスは単純化されたものや押しつけがましいものである必要はない、ということが明らかになったと思います。詩的で、多層的で、感情に正直な表現が可能であり、あらゆる世代の人々に問いを投げかける力があるのです。壊れたものとどう向き合うのか。傷は美しくなり得るのか。私たちは、どのようにして共に癒やすことができるのか。
私たちは当初、子どもたちにとって意味のある体験をつくることを目指してこのプロジェクトに取り組んでいました。けれども結果的には、来場されたすべての方々にとって意味のある体験となりました。それこそが、私にとって最も望ましい成果であり、ケムニッツ、そしてその先へと国際的かつ異文化的な芸術協働への投資を続けていくべき最も強い理由であると考えています。
