コラム
ColumnSpring Forward Festival 2025にみるダンスのエコシステム
◎はじめに
Spring Forward Festival 2025での経験や見聞について記す際、もはや作品鑑賞における評論にとどめられないほど、世界に広がるダンスのエコシステムについて言及することは避けて通ることができない。正味4日半にわたるこのフェスティバルでは、日本国内でのダンス作品の鑑賞体験では得られない、世界中から集まったダンサーや振付家をはじめとするダンス制作者、劇場やダンスハウス、フェスティバル等の運営者らとの交流・交換が不可欠であり、この体験もダンス作品の鑑賞を密接に支えていたからである。
アイルランドを拠点におくaerowavesが2011年からヨーロッパ各地で開催地を変え開催する本フェスティバル。今年の開催地となったのは、もとは「ゴリツァ」というひとつの町であったイタリア・ゴリツィアとスロベニア・ノヴァゴリツァだ。両国・両市をまたがり、17カ国から選出された若手振付家の21作品(これに加えSilvia Gribaudi/Andrea Rampazzo共同振付の委嘱作品『Amaterski tihotapci / Contrabbandieri dilettanti』も上演)を計5カ所の劇場や文化施設、体育館で鑑賞した。
徒歩やバスで移動するあいだ、45カ国から集まった劇場関係者や上演作品関係者ら合計約350名と行動をともにするということは、会話が発生しないわけがなく、また数少ないアジア人の参加者(そして世界中のダンス関係者にすっかり親しまれている乗越たかお氏の舞踊評論家【養成→派遣】プログラム参加者)として、相手方から興味を持っていただくこともしばしばであった。
「日本のコンテンポラリーダンスにはButohとTeshigawara(勅使川原三郎)以外に何があるの?」「去年横浜ダンスコレクションでこんな作品を観た。あれはどういうことだったのか」といったダンサーや作品自体に関する問いかけは数多く受けた。しかし割合として圧倒的に優ったのは、日本と相手の国のダンスコミュニティや教育のあり方、創作環境やプロセスのあり方、行政や民間団体による助成支援制度、キャリア形成の方法やフリーランスとして仕事をすることについて、さらにはダンサーのインクルージョンに関することまで、いわゆる「ダンス作品の外」に巻き起こりながらダンス作品にも少なからず直結しているトピックに関する会話であった。移動中や上演前後に会話した方は30-40人程度はいただろうか。帰国後も情報交換や相手の来日に向けた微力なサポートを続けている方もおり、私の中でも「ダンス作品の外にあることも伝えなければ、Spring Forwardでの経験を最大化して日本のダンス界に還元できない」と思った次第だ。
長い前置きになってしまったが、そんなわけで「ダンス作品の評論」を求められている本稿ではあるものの、「ダンス作品の外」にも多少触れながらいくつかの印象的な作品を抜粋して紹介したいと思う。
◎ステートメント+舞台表現=120%
とはいえ、やはり作品自体に焦点を当てて評したいものはいくつかある。全体ラインナップの中でまず何が印象的だったかと問われると、コンセプトを身体の動き、構成、音楽、照明、衣装などの舞台表現として緻密に落とし込み「設計」したと表しても過言でないほど、明快で強度のある作品が真っ先に思い浮かぶ。これらの作品は客席からの反応、例えばカーテンコールの回数や歓声からも高評価であったのが明らかであった。
この明快さは、視覚表象としての身体/舞台表現の記号性が強く意識されたことによるもので、感情移入やミラーニューロン現象が発生する余地、つまり観客の解釈の揺らぎが比較的少ない。また、フェスティバルのウェブサイト等に掲載されている作品ステートメントテキストの内容をしっかり抑えたうえで、その先の「言葉を超えて舞台表現でしか伝えられないこと」のクオリティも高いゆえ成立していると言える。
まずは初日トップバッターを飾ったDominik Więcek / Sticky Fingers Club『GLORY GAME』。最初の15分ほどはメトロノームのように簡素なBPM40程度のビートともに、全裸の男女ダンサー6名が正方形に敷かれた白砂の上に上手奥側から一列になりスローモーションで走る。各々のペースでバラバラと走り始め、次第に足並みが揃い、今度は競走以外の仕草も見え始め、ビートにも『ボレロ』の如く他の音の要素が加わっていく。ふと気がつくと、ひとりのダンサーがジャージを片手に持ち身に纏っている。平らな砂の中に見えないように仕込んで引き出していたらしい(!)が、いまだにこの周到な仕掛けが不思議でならない。他のダンサーもレオタードやボディスーツ、ジャージのセットアップなどをするりと白い平面から魔法のように引き出し “現代人” の姿になっていく。
すると競走の列から1名が砂の外へ出て、メダルをおもむろに出し勝利のポーズやメダルかじりを始め、かたや背後では対戦相手との乱闘を審査員が制止するかのような光景。いつの間にか舞台袖から持ち運ばれたショベルの両端を2名が持ち、その上で小柄な女性ダンサーが見事な逆上がりをスローモーションで見せる。後から聞いたところだと出演者は全員なんらかのスポーツの素養を持っているそうで、この女性も体操経験者と思しき体つきをしていた。
ラフな手書きで「それではスロー再生で見てみましょう」と書かれた段ボールを掲げる人、ブランドロゴが入ったサーフボードを手に持つ人、ショベルで白い砂をゆっくりと舞台下に捨てる人、いつかテレビ越しに観たあんなポーズやこんな仕草。砂上のあちこちで現代スポーツのパフォーマティブな身体記号が繰り広げられた後、背後の幕が上がり劇場搬出口に向かいダンサー2名が脱出する。その傍らである者が「BOOK US NOW(今すぐブッキングして)」と記された段ボールを掲げ、作品は終わる。
本作は近現代スポーツ自体、あるいはスポーツを伝える(スローモーション撮影・再生を含む)メディアの技術発展、資本主義の加速とともにスポーツが得た過度なパフォーマンス性、そしてダンスフェスティバルのあり方に痛快に切り込みつつ、しかし全く苦い後味はない。アスリートたち — 出演者ら自身もかつてそのひとりであった — の血の滲むような努力に敬意を払いながら、彼らを取り巻く構造や状況の歪みとさえ肩をしっかりと組み、それでいてじっと目を見て物申すWięcekらの姿に誠実さを感じた。
対して、鑑賞から数週間経った現在でも後からじんわり不穏な後味が浮かび上がり、自分自身の日常に絶望と焦燥感すら覚えるのがProduction Xx『GUSH IS GREAT』だ。
全体で起こることを端的に表せば、5名のダンサーが手を取り合って並び、客席側を無表情で終始見つめながらゆっくりと舞台上を移動しつつ、様々な身の回り品を衣服からゆっくり取り出しては無関心そうにポトポト床に落としていく。ただそれだけと言えばそれだけ。なのだが、落としていった小物が散らばった背後の光景や、気丈な音楽から自然の音、享楽的な遊園地の環境音からやがて戦火の阿鼻叫喚を思わせる音への緩やかで不穏な変化が、この一見シンプルと思える振付に豊かな物語の厚みを与える。
終盤に2名が崩れ落ち、それでもなお舞台へりから客席へ真っ直ぐに倒れ込むまで前進をやめないダンサーたちの姿が、無関心で不感のまま今日の不安やひずみに溢れた社会を作ってしまった人類への自戒を淡々と促す力作であった。何より「ダンスしない」選択をここまで徹底し、それでいてパリオペラ座バレエ学校やP.A.R.T.Sなどで研鑽を積んだ若者たちによるコレクティヴが、そのコントロール力ゆえ舞台空間を制圧する存在感を放ったことが印象的であった。あとからカーテンコール映像を見返し、そんなにダンサーの衣装や体格は大きくなかったのかと驚くほどである。それにしてもこの作品を観てしまった以上、いったい私はどんな表情でどうやって、今日もこの地球上の至る所で巻き起こっているディストピアを傍目に、もしくはその最中を過ごしていけばいいのだろう。おかげで今も毎日打ちひしがれていて、生ゴミ一つ出すにもウッと躊躇してる自分がいる。
◎舞踊芸術以外の芸術形態とダンスの関係
『GLORY GAME』と『GUSH IS GREAT』は現代社会に潜む不条理や歪みの果てを、奇遇にも「スロー」を共通キーワードに、それぞれ異なる記号として用いて描いた二雄と言えよう。この2作ほど現代社会における問題提起は含まれていないが、意図に対する表現が率直という意味で取り上げたいのがHypercorps / David Zagari『Le Piquet』だ。作業服とヘルメットという匿名性が高くまるで宇宙に不時着したような姿のZagariが、ポールダンスの身体言語を用いながらもその様式についてまわるエンタテインメント性、セクシュアリティを排除して見せる作品だ。ダンサーの身体とポールの関係が、「物理の教科書ダンスバージョン」としてミニマルに提示されることで、逆説的に本流(?)のポールダンスが帯びた俗な記号性が滑稽に炙り出される。肌が露出し裸足でポールと接触するからこそ安定できるものなのに、スニーカーを履き全身を覆う作業服を着てドロップ(落ち技)を披露するZagariの身体能力には息を呑んだ。シークエンスごとにオレンジ、薄桃色、青白い光で全体が彩られたが、実際はショッキングピンクの衣装や舞台装置を用いていたことが終演後に判明するところに照明デザインの妙があった。
現代社会の様相に「切り込む」というより、穏やかに抱擁する姿勢を持った作品もあった。threeiscompany & Jaro Viňarský『IHOPEIWILL』は、さまざまな世代の人々が、家族、友人、広い社会や身近な出来事との関係を語るインタビュー映像を上演前から劇場ロビーで上映、そしてストッキングのように伸縮するナイロンロープをあちこちに張り巡らせていた。舞台上にも客席が設置され、天井から吊るされいくつかフックが仕込まれたロープが四方の重石で固定されたインスタレーションの間を、ロビーにもあったナイロンを胴体にグルグルに巻きつけたダンサーが歩き、即興でどんどんフックやロープにかけて回っていく。
最初は軽やかに歩いて回っていたダンサーだが、次第にさまざまな箇所から張力を受け、ナイロン、インスタレーションと引っ張り/引っ張られる関係となっていく。途中、動きそうになった重石を周囲で待機していたスタッフや観客も止めにかかったり、ダンサーも全体の関係性を見ながら即興でロープの間を掻い潜ったり、スラックラインのようにナイロンの上を渡って見せる。物理的・精神的な相関関係にある個人あるいは社会全体の姿を見ているようで、一名のダンサーとロープ・インスタレーション・そして周辺を囲むように見守る観客の図が世界のあたたかな希望を孕んだ縮図としてあらわれた。歓声や興奮を共有するのとは違う、静かで親密な一体感が優しく残った。なるほど、だからタイトルは単語の間にスペースがないのか。
映像や劇場外での空間的プレゼンテーション含めてひとつの作品として成立していた本作は、ダンスがパフォーミングアーツ/劇場空間の範疇にとどまらない可能性も示唆してくれた。
同様に、身体のあり方に焦点を置きながら「パフォーミングアーツ分野」に限らないプレゼンテーションを用いていたのはgergő d. farkas『babes』だ。自身の身体を「名を持たない感覚器官の集合体と捉え、身体をクィア化する振付リサーチ “organ-ing”」をもとに、farkasの自我が “感覚器官の集合体としての肉体” を時に制し、時に自我という概念すらなくただ肉体が肉体として実存しているような振付の距離感が魅力であった。既成の概念的境界を解体し無化する「クィア化」といった肉体の扱い方、そこから立ち上がる幻想的な風景は他作品の「ダンサーと自身の身体の関係」と一線を画していた。farkasの「organ-ing」というコンセプトにまつわるステートメントや使用した舞台音楽の一部、世界観をビジュアルとして提示しているウェブサイト https://organ-ing.gergodfarkas.com/ もデザインが素晴らしく、彼がこのコンセプトを基に今後も継続的に創作に当たっていく伏線として受け取った。
元々は大きなステージ上での上演を前提とした作品ではなかったようで、特に照明やスモークマシンとの関係に計算不足が見られた。照明が当たらないステージ脇の壁で他の空間を持て余してしまったり、ある場面でfarkasがちょうど私とスモークマシンの対角線上にうずくまり、まるでfarkas自身から煙が上がっているような(意図せずユーモラスな)状況になってしまったのは惜しかった!しかしこの独自コンセプトを今後どのように展開し、小規模なサイトスペシフィック向き作品であることも強みにどう再演するかが期待されるところだ。なお本作はその後ハンガリー内の優れた身体表現作品を讃えるルドルフ・ラバン賞にノミネートされている。
ちなみに『GLORY GAME』は舞台写真が載ったポストカード、『IHOPEIWILL』はコンセプトステートメントが記された栞サイズの印刷物が観客に配布された。以前は日本でもよくあるA4あるいはA3二つ折の印刷物が配布されることが普通だったが、コロナ禍を機に印刷物をなくすか、あっても省サイズを図る公演が圧倒的に増えたそうだ。グラフィック/印刷デザインの力もまた作品を伝達する重要な要素であり、A4判よりも嵩張らずしかも印象に残りやすいメリットもある。
◎造形ロジックの違い・余白の作りかた
『IHOPEIWILL』もまたProduction Xx同様に「ダンスしない」選択が為された作品である。しかし舞台上最前列でダンサーの身体をまじまじと観ていた限り、ダンサーはかなりトレーニングを積んだ足裏や指を持っており、慎重な足取りやナイロンをまたがる動作ひとつ取っても、空間と時間を造形する強いファクターとなっていた。
頻繁に来日しているある劇場関係者からは、日本のダンスは「振付の精度や技が重視され、その面ではクオリティは申し分ないが、コンセプトがあまりよく分からないことが多い」という感想をいただいた。これだけ或るアイデアをベースに時間と空間の設計力を持った作品を観てしまうと、日本のダンス作品で良しとされる作風が相対的に作品力が弱く見えてしまうが、これはダンス作品自体の問題というより海外と「造形ロジック」の組み立て方が異なる言語的・文化的な背景もあるように思う。(余談だが、私が翻訳者として時折お手伝いをする建築やプロダクトデザインの海外アワード応募をはじめとするプレゼンテーションの機会にも似た事態が起きがちである)
そのことに気づいたのが、オープニング作品として小㞍健太が地元ダンス学生グループPEPAに振り付けた『AHAI』(あわい)だ。体育館にて観客が地べたに座りU字に囲むかたちで、クラシックバレエベースの振付をダンサーが群舞やソロで踊る。それぞれに課された質感が踊られる様に、具体的に「何を」踊っているかの明確な提示はないが、石庭に立ち上がる見立ての経験に似たものがあり、踊り自体というより身体同士の間にある空気の質感を得ている感覚があった。こういったアプローチは日本国内でよくあるものだし決して真新しいものではないが、全ラインナップの鑑賞を終え、小㞍のアプローチがむしろ異質に思えた。
そうは言いながらも、こういった身体の外の余白を見せるアプローチがなかったわけではない。男女デュオ作品のLand Before Time『Waterkind』は、ストリートダンスのポッピングの身体言語を用いながらもダンススタイル的な部分は排除し(この点、Zagariの『Le Piquet』にアプローチが通じるものがある)両者が一切の身体的接触を伴わず、水や空中の伝播、揺らぎなどを互いの動きのインタラクションによって呈するものであった。上体をまっすぐに保ち、両手のひらを平面的に上げる仕草などが日本舞踊の身体性に非常に近いものがあり、また日本舞踊もポッピングのように身体を部分的に緊張させて型を見せることがあることを想起させた。作者からすれば全くこのように発想していないかもしれないが、身体が部分的に緊張するだけで空間の質感が変化することを効果的に利用しているという意味で、日本舞踊とストリートダンスは相通じるものがあると感じる。「接触を伴わずに影響し合う」という発想は日本の空間・時間感覚によくみられるものだが、この発想は海外では異なるインパクトを持って迎え入れられるのかもしれない。ポッピングの身体性はこのアイデアをコミュニケートするのに好相性であった。ちなみに女性ダンサーはDJとしても活動しており、BGMは彼女の作曲であったそうだ。
アイデアに忠実な表現であることは、ともすれば「野暮」であったり「やりすぎ」と評されることもあるだろう。だがここで『伝えることと伝わることは違う」というある編集者の言葉を紹介したい。そういったアプローチの作品が日本で増えると「ダンスのためにダンスすることに限界を感じている」ダンサーにとっては突破口になるのでは。しかしそのためにはダンス以外の表現にも通じる「造形ロジック教育」も必要かもしれないと思った。ここは語り出すと長くなりそうので、またの機会に。
◎ダンスと社会をつなぐ、ダンサーのアイデンティティ
振付家/ダンサー自身のアイデンティティをめぐる作品も多く見受けられた。フィンランド人とアフリカ系の血を引くAlen Nsambu『NEON BEIGE』は先祖や「白(光)/黒(闇)」にまつわる詩と環境音楽をBGMにほの暗く落ちた照明の中で白昼夢のように踊る一幕から始まる。と思いきや、明転し「赤ずきんちゃんとオオカミ」のひとり人形劇をセクシャルなギリギリアウトユーモアで披露。赤ずきんが「私は白人以外もイケるクチなの、だって黒人差別のこともちゃんと勉強してるから」と何の躊躇いもなく発言する様子が描かれる場面は、ダンサー自身が経験した会話から着想したのだとか。挑発的なシーンの後、孔雀の羽のように伸び出るラスタカラーの照明が踊り歌うAlenの背後から見えるシーンには、自身が持つ系譜に対する美しいプライドを感じた。
少数派言語であるガリシア語を母語とするJanet Novásと音楽家Mercedes Peónそれぞれの視点や表現を交換するように重ねた『Mercedes máis eu(ガリシア語で「メルセデスと私」の意)』は、Novás の力強く跳ね回るような踊り、Peónの叫ぶようなヴォーカルと演奏には火花が飛び散るような爆発力が充満していて、それでいて自我から決して離れない芯があり、その衝撃波で涙腺が緩んでしまいそうなほどだった。ダンスと音楽の合間にNovásがスペイン語・ガリシア語で語った内容が理解できなかったのが非常に残念だが、横にいたダンス関係者が教えてくれたところによると「少数派言語を母語とすると、自己肯定感が低くなる」といった内容だったそう。
ほかにもレバノンにルーツを持つCharlie Khalil Princeが即興性の高いダンスと音楽演奏を交え、自身の国における政治性を表現した『the body symphonic』、アパルトヘイトやBlack Lives Matter等の衝撃的な史料映像の背景投影も交え、黒人が抵抗の歴史とともに発展させてきたクランプ、クペ・デカレ、アフロハウスなど様々なダンススタイルを振付に取り入れたOulouy『Black』などが上演された。
◎コラボレーターの存在
このような作品は振付家/ダンサー自身のルーツや現在置かれている境遇、自分と同じトピックを共有しうる人種や属性などに言及するだけに、パーソナルな部分と向き合う体力と勇気が多く必要なことだ。その事実だけにでも拍手を送りたくなるが、一方で客観性を失うリスクも孕む。
Oulouy『Black』はダンスに怒りや哀しみを込めながらも前を向こうとする気概が痛いほど伝わった。おそらく内へ内へひとりで向き合う時間も多かったのだろう、根深いなんて言葉で片付けられないほどのトピックに向き合ったのだから。それゆえか、多くのダンスや演出上のアイデアが散見されながらも、今一つ客観性やまとまりに欠ける印象があった。隣り合った鑑賞者が「ドラマトゥルギーをつければ変わったかもしれない」という感想を述べた後に気づいたのは、Oulouyの作品は全ラインナップの中で最も少人数体制(振付・出演:Oulouy / 制作:Africa Moment)で作られたものであり、20作品中3/4は「ドラマトゥルギー」等のコラボレーターのクレジットが入っているということだった。Choreography consultant, research support, mentor,さらにはwriting coachというクレジットが入っているものもあった。
もちろん、日本国内でも主に演劇分野でドラマトゥルギーとして活躍する方がおられ、ダンスにおいても近年ドラマトゥルギーが参画する作品が徐々に増えはじめている印象がある。しかしドラマトゥルギー専門ではない方とも共同リサーチやメンタリングをともにする創作プロセスが現在よりも「当たり前」になり、作者に創作面・精神面双方での支えがある状態で、作者が社会との接点や他者性を強化しながら作品のクオリティ向上を図ることができるのでは。分野横断はダンス制作者、観客、さらには舞踊芸術以外の各分野の当事者にとっても、社会全体をひらく重要なキーとなると信じている。
◎「わからなさ」は罪?
しかしドラマトゥルギーが入っているからといって作品の評価が担保されるとも限らない。どの作品とは言わないが、後半に数名途中退場が発生し、拍手のみでカーテンコールや歓声が全く発生しない酷な反応を得た作品もあった。正直にいえば私も途中の記憶がないほどなかなか冗長でテンポ悪く感じた。同時に類似した展開の作品は日本のダンス作品にありがちだと思ってしまったのも事実である。
「アイデアに基づいた独創的な振付であること / 不要な要素を省く自信が感じられること / 明確でしっかりとした構成を持っていること」がSpring Forwardの選定基準として掲げられているのだから、戦略性が強い作品が集まるのも無理はない。構成・ストーリーテリングの余白が多く、言ってしまえば「わからなさ/観客に解釈を委ねる揺らぎの大きさ」が占める割合が高い作品は、相対的なものなのか上演後に批判的な感想が聞こえてくることもしばしばだった。
しかしコンセプトの明快さのみ評価し、表現に「答え」を求めるようなことこそ今日的なひずみの一つではないか?そして揺らぎを含んだ表現を提示する勇気こそ評価するべきではないか。
例えば『Never ALLone』でクロアチアの若手ダンサー(加えてメディアアーティストの肩書きも持つ)Matea Bilosnićは、石膏で作ったいくつかのオブジェを難波船の現場に見立て、その合間を40センチ四方程度のいささかオールドスクールなロボットとともに、個人のトラウマにまつわる詩を朗読しながら踊った。時折ピカピカと光り動きまわるロボットとMateaのたたみかけるように韻を踏む詩の朗読、そしてロボットの上に乗ったり周りを機敏に動きまわる振付が見事なタイミングで続く場面からは圧巻のコントロール力を感じられ、非常に印象的だった。しかしそれ以外の場面は重低音が特徴的な電子音楽、スペクタクルな照明デザインを持ってしても、批判的な見方をすれば若干冗長に感じられた。本来ここで作品が終わりそう、という場面の後も上演が続いた時はちょっと肩透かしを食らった気分だった。とはいえ、今もなお舞台上でダンサーとロボットの間に漂っていた詩的な何か、そしてロボットに(勝手に)人格を見出してしまうこちらのエゴがじわじわと後から効いていて、結果的には賞味期限が長い作品となりそうだ。
Armin Hokmi『Shiraz』は開場時から舞台上で重低音を用いたミニマルミュージックが鳴りわたる中で、ダンサー6名が舞台上で星座をなすようにそれぞれ離れたところに立ち、水彩を着色したかのような淡くも鮮やかな衣装を着て、片手を腰のあたりにかざし、もう片手を額の前にかざしながら数センチ程度の前進をしている風景から始まった。少しずつ動き、時々ユニゾンとなり、また解散する・・・「エキゾチックなシャロン・エイヤールって感じね!それにしても、美しかったけど途中飽きちゃうかと思ったわ」と隣にいたドイツ人と笑った。少しずつ変化しながらシーンを構成していく音楽や照明、そしてとにかくミニマルな音楽に対しダンサーたちがどうカウントをとっているか全く分からない絶妙な振付は、批評性の少ない単純な言葉を選べば、ただただカッコよかった。しかしつい先月シャロン・エイヤール振付作品の来日公演を観ていたのも相まって、ではエイヤールとどう違うのか、今流行ってるスターコレオグラファーの真似と言われないためにどのようなディフェンスが構えられるのかといった疑問が生まれた。
エイヤールと確実に違う点としては、クラシックバレエの確かな素養が露呈するほどの振付ではなかったこと。そしてエイヤールが抽象的で内的なモチーフを扱うのに対し、本作はかつてジョン・ケージやヤニス・クセナキスなど現代音楽の巨匠たち、さらに寺山修司や日本の能作品、中近東アジアの多種多様なアーティストが参加したという伝説のシラーズ(ペルセポリス)芸術祭の10年間(1967-77年)の軌跡が作品の端緒となっている点だ。実際に芸術祭関係者にもリサーチを行っているのだそう。そのようなリサーチをベースにした振付だとしたら、あのミニマルなグラデーション的時間がつまり何だったか理解するために、シラーズ芸術祭について事前にインプットしておけばよかったと悔やむばかりである。
最初に紹介した3作は、言い換えればある程度観客が解釈することが限定されてしまう。これ自体は悪いことではないが、それだけがコンテンポラリーダンスの良作であると言い切るのは趣がない。「ダンスフェスティバルなのだからやっぱり『踊っている』ダンスが観たい!そして日本にあまりない表現を観たい」という方に勧めるとしたら、上記の作品を選びたい。
◎ダンサー自身のインクルージョン
いわゆる「健常者」ではないダンサーの作品もあった。Aristide Rontini『Lampyris Noctiluca』は、Rontiniがイタリアの有名な映画監督、ピエル・パオロ・パゾリーニの軌跡に触れながら「多様性に対するさまざまな視点を “知覚とヴィジョンの増幅” というかたちで探求(中略)踊る身体を変容と想像のヴィジョンが交錯する場として立ち上げる」作品だ。冒頭、舞台上手で上方から大きな銀紙のようなタペストリーが吊り下がり照明が当たる横で、暗闇の中から後ろに腕を組み少しずつ前進するRontini。少しずつ腕を広げる彼が、右腕の肘より10センチほど下から先が欠損していることに気づく。そこから先は、直立したり時折横たわりながら、彼の両腕だからできる彫刻的・動的な上半身を中心としたダンスが繰り広げられる。最後にマゼンタ色のプリーツ様の布を頭に被り、欠損した右腕を胸に当てる姿はモニュメント的な美しさを呈した。
終演後、「彼はもっと自分の身体にできることをやるべきだった」という感想が聞こえてきた。私の受け取った印象では、彼は自分の身体だからこそできるダンス造形はやりきっていてそれが十分美しかったし、むしろそういった期待は「障がい/欠損のある身体は健常者にできないことをするべき」という「健常者」(という言葉、あまり使いたくないのだが)の高慢かもしれないと考えるようになった。
さて、さまざまな出会いがあったSpring Forwardだったが、ある意味一番衝撃だったのがAlessandro Schiattarella氏との出会いである。Alessandroはイタリア出身、現在スイスでインクルージョンをテーマにしたダンスフェスティバル「IntegrART」を主催している。なんと、ミラノスカラ座で小学生の頃からトレーニングを受けたのち、15歳で最年少ソリストとしてモーリス・ベジャール・バレエ団に入団。その後は最晩年のベジャールとも数作仕事をし、その後フリーランス振付家としてSpring Forwardにも参加していた、つまりダンサーとして申し分ないハイプロフィールを持った人物である。しかし数年前に平山病(若年性一側上肢筋萎縮症)を発症し両手に思うように力が入らなくなり、以降はダンサー自身のインクルージョンをテーマにしたフェスティバルや自身の今の身体でできる創作をしているのだという。
順風満帆であったダンサー人生に突如降ってきた筋萎縮の病気を患ってもなお、ダンスに関わろうとする彼の覚悟とダンス愛に敬服の念を払うばかりである。
日本で「ダンスとインクルージョン」というと、ダンサーとしてキャリアを持たない方に対するコミュニティダンスのワークショップ、障がいを持った鑑賞者がどのように作品にアクセスするかといった試みはすでに為されている。また先天的な事由をダンスに活かしている存在として、デフパフォーマンスアーティストの南村千里、(コンテンポラリーダンスの文脈かといえばそう言い難い部分はあるものの)車椅子ダンサーのかんばらけんたや小人症のバーレスクダンサーちびもえこなどの活躍も目覚ましい。
しかし、さまざまな理由で後天的に身体が思うように動かなくなったあと、ダンサーが選ぶセカンドキャリアをはじめとした選択肢に、日本ではどのようなロールモデルがあるか?ダンサー「自身」のインクルージョンは?無論、本稿だけで答えが出るトピックでなく今後いろんな方々と議論していきたいトピックだからこそ、AlessandroやRontiniのようなダンサーの存在は、国内でも折に触れて伝えていきたい。
◎最後に
最後に体育館スペースでDJブースを目前に、ダンサーと観客が同じグラウンドレベルで空間を共有したCollectif OUINCH OUINCH『Happy Hype』は、クラブ/クィアカルチャーのボキャブラリーがふんだんに盛り込まれ、批評眼抜きに楽しめる作品であった。最後は観客もダンサーと一体に大団円となり踊り、その流れからアフターパーティの祝祭が夜中まで続いた。そこには上演を終えたダンサーたちにも増して、全身全霊で踊り狂う年配の各国劇場/ダンスハウス関係者たちの姿があり、思いもよらない形でダンスの普遍性と彼らのダンス愛を目撃したのだった。
今回Spring Forwardへ中本登子氏とともに派遣を拝命いただいたことで、これまで乗越氏がほぼひとりで行ってきた海外ネットワーキングも、3人揃えば得られる情報量や築く関係性も3倍となり、より発展的な議論や知見共有が可能となった。現地で直接人と会い作品を目撃するという、シンプルでありながら経済的ハードルが高いアクティビティが評論家個人だけでなく、日本のコンテンポラリーダンス界の糧となるよう、Spring Forwardで目撃したダンス作品そしてエコシステムにまつわる情報や知見を、確かな行動や実践へと繋げていくべく少しずつ動き始めているところである。改めてこの機会を作ってくださった乗越さん、ご支援くださったaerowaves事務局、EU・ジャパンフェスト日本委員会に最大の敬意と感謝を申し上げたい。

