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[Vol.104] 国境を越えて晒すダンスを

下島 礼紗

振付家・ダンサー

今回私は、ハンガリーのブタペストとペーチで開催された「第5回ボディラディカル国際舞台芸術ビエンナーレ(5./BODY RADICAL International Performing Arts Biennial)」に参加させていただき、ソロ作品の発表と即興パフォーマンスを行った。私にとっては、これが初の海外公演であった。このフェスティバルへの参加のキッカケとなったのは、2017年2月に日本の横浜で開催された「横浜ダンスコレクション2017」コンペティションIIにて、作品を発表し、「タッチポイントアートファウンデーション賞」をいただき、このフェスティバルへの参加の切符を得た。本来、この賞は、コンペティションII(新人部門)からではなく、コンペティションI(一般部門)から選出される賞であり、コンペティションIIに参加していた私にこのチャンスを下さった、フェスティバルディレクターのBataritaさんに感謝の思いである。海外での作品発表は、私の創作活動において、まだ先の話であると思っていたこともあり、ハンガリーへの招聘が決まった時は、とても驚きであった。と同時に、異例の選出であるからこそ、日本の代表として、決してこのチャンスを無駄にしてはいけないと、身の引き締まる思いであった。

 

 今回、私が発表した作品は「オムツをはいたサル(Monkey in a diaper)」という作品である。この作品は、日本の著者、栗本慎一郎氏の著作「パンツをはいたサル〜人間とは、どういう生き物か〜」からインスピレーションを受け、創作したものである。この著書には、ヒトは裸のサルが余分にパンツをはいた生き物だと書いてある。ヒトはサルが裸になっただけではなく、パンツを履いてそれを脱いだり、脱ぐ素振りで雄を誘ったり、おかしな行動をシステマティックにとっている。そのことから、性行動・法律・道徳・宗教などを「パンツ」という表現に置き換えてヒトの行動を説明しているのだ。ソロ作品「オムツをはいたサル」は、この中の「宗教」の部分に主に着眼点を置き、1995年3月に日本の宗教団体「オウム真理教」が起こしたテロ事件「地下鉄サリン事件」とコネクトさせて創作した作品である。だが、海外での作品発表となるとここで大きな問題が生じる。そもそも「オウム真理教」や「地下鉄サリン事件」というワードは日本人なら大多数の人が聞いたことのあるもので、内容についてもある程度のことは知っているだろう。しかし、海外の人々にこれがどれほど認知されているかわからない上、宗教への考えた方も日本人とは大きく異なることが想定される。であるならば、この作品をどう見せるか、ということがハンガリー出発前の大きな課題となった。作中に、プロジェクターでオウム真理教についての解説文を投影することも考えたが、それでは作品の本質よりもオウム事件の内容が先行してしまうようであまり良い方法ではないと思った。そこで、今回は作品をそのまま(ハンガリー仕様にはせず)持っていき、発表することを決意した。それによって、私の『身体と作品』の本質が見えてくるのではないかと考えたからだ。日本でこの作品を発表した際、『身体』よりもオウム真理教を取り扱ったことに対する評が多かったように思えた。この機会に作品の内容(コンセプト的な部分)ではなく、下島礼紗という人間の身体をダイレクトにぶつけてみようという試みであった。

 今回のフェスティバルは、日本・韓国・台湾から参加した5組のアーティストと共にオムニバスの形式で公演を行った。海外アーティストと共に、ハンガリーで作品を上演するという状況は、初の海外公演になる私にとっては、とても国際的で貴重な体験であった。そして、上記で述べた、今回の試みは、私にとっての大きな発見や課題を得ることができた。作品上演後、フェスティバル関係者や観客、共に出演したアジアのアーティストから様々な意見をいただいた。その意見は、私が踊る上で、大切にしたいと感じていることや、私の作品の全てに通ずるコンセプトなどに気づかせてくれた。例えば「ジェンダー」や「幼児性」、「母性」などだ。作品を通じて、私自身を見てもらえたように思い、このことは素直に嬉しかった。客席から、「作品を感じようとする力」を強く感じ、とても感動した。フェスティバルの関係者から聞いた話によると、ハンガリー人は、あまり作品のコンセプトを知ろうとはしないということだった。つまり、作者が考えたコンセプトや作品の正解よりも、作品を見て、その瞬間に自分が感じたことや考えたことを大切にするようだ。私はこれを聞いて、とても素敵なことだと感じた。観客として作品を観ることが、受動的ではなく、その作品に自分の意思を投じ、それも含めて作品として受け取るということは、コンテンポラリーダンスのような不確かなジャンルが今後普及していくために、とても大切なことだと思う。もちろんアーティスト達が高質な作品を世の中に提示することが大前提だが、観る側の意識が豊かになっていくこともとても重要なことだと思う。それを含めて言えば、今回の私の作品にはまだまだ未熟な部分がたくさんあった。観客がどの視座から作品を観るかわからないからこそ、油断はゆるされない。作者自身が一筋縄で作品を完結させてしまってはいけないのだ。作者は、様々な角度から切り込み、疑いをかけていかなければならない。例えば、コンセプト・身体性・必然性・意外性・全体のリズムなど、より自分のダンスを疑いながら進化させていかなければ、観客は退屈してしまう。言葉や文化の違う異国の地での発表だったからこそ、このことの気づくことができた。だが、これは、海外だろうが日本だろうが、変わらないだろう。そもそも人はそれぞれ違う感覚や考え方の中で生きている。だからこそ、より視野を広げて創作していかなければいけないという、大切なことを今回の経験から得ることができた。
 今回、初の海外公演を経て、国によって言葉や文化は違うけれど、作品は国境を越えて舞台に曝け出されるものなのだと強く感じた。曝け出されることは、怖いことだが、同時にとても平等だ。だからこそ、国境を越えて、興味を持ってもらえる作品を創作していきたいと思った。どこまでも不確かなこのジャンルの中で、どう生きてどう楽しむか。今回の経験を経て、今後の活動に武者震いする思いである。 今回のフェスティバルは、たくさんの国際的な出会いや交流のできる素晴らしいフェスティバルであった。このチャンスをくださった、ディレクターのBataritaさんをはじめ、フェスティバルスタッフの方々に心から感謝の思いである。

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