• shareshare
  • shareshare

欧州文化首都における日本関連プログラムを支援しています

HOME > コラム > 「再び欧州に学ぶ」 ― 欧州文化首都運動に「都市と文化の将来」を見る

[Vol.8] 「再び欧州に学ぶ」 ― 欧州文化首都運動に「都市と文化の将来」を見る

欧州文化首都運動による街の活性化。グローバル化とローカル化が同時に進む社会で私たちにもとめられる「市民の意識」とは?
当委員会事務局長・古木修治が「NIRA政策研究」に寄せた文章です。

古木 修治

事務局長

この文章は「NIRA政策研究 2004 Vol.17 No.6」を転載しました。

 

 はじめに

グローバル化という言葉が大流行だが、日本にとっていよいよ近く大きくなったのは米国だけで、欧州ははるかかなたの遠い 存在になりつつある。確かにグローバル化の震源地は、世界最大の資本力と最強の軍事力を擁する「帝国」米国だ。しかし、グローバル化の大波は世界のさまざ まな地域の情勢にも大きな変化をもたらした。その最たるものは、2004年5月1日に中東欧など10カ国が新加盟して25カ国の大所帯に発展した欧州連合 (EU)の拡大である。
1983年、欧州の統合をうたった「ローマ条約25周年」記念式典が東京で行われた際には、当時の中曽根首相をはじめ、主要閣僚および野党党首が一堂に 顔をそろえた。欧州統合がまだ「夢」でしかなかった当時にあっても、時の日本政府は時代の先を読んでいた。ところが今回、世界のあり方を変えるほどのEU 拡大に際し、東京での公式記念行事に顔を見せた政府首脳は皆無だった。画期的な変ぼうを遂げようとするEU拡大に、日本の政府も国民も、そしてマスコミも その歴史的な意義にふさわしい関心や対応、祝意をもさほど示さなかった。日本のグローバル化は、すなわち米国化にすぎないという印象は否めない。
明治の近代化は欧米、殊にヨーロッパに学ぶことからスタートした。憲法や法律、産業やビジネス、陸海軍の創設から科学技術、芸術文化に至るまで、すべて の領域でヨーロッパ諸国に学び、国づくりにまい進した。しかし現代の日本にとって、欧州はどのような存在であるのだろうか。筆者はここ十数年、非政府組織 (NGO)の文化活動組織「EU・ジャパンフェスト日本委員会」の事務局長として日欧間を往復してきた。「国民国家」の枠を超えて、欧州全域の社会・文化 が自在にクロスするグローバル化の状況を目の当たりにしてきた。ここでは主として、1985年に始まった「欧州文化首都」運動(提唱者はギリシャのメリ ナ・メルクーリ文化大臣〈当時〉)等の実情について、直接見聞し体験したことを報告したい。
この運動は、EU統合の深化と拡大の進行に合わせて、毎年EU加盟国(当時は欧州共同体〈EC〉)の中から1都市を選び、欧州文化首都として定めて1年 間さまざまな芸術活動を行うもので、欧州の各地域で芸術文化の創造を活発化させようというねらいでスタートした。「EU・ジャパンフェスト日本委員会」が この運動に参加し始めたのは、欧州市場統合が完成した1993年、ベルギーのアントワープ市が欧州文化首都となったときからである。まずは市場統合によっ てEU統合への大きなハードルを乗り越えたことを契機に、欧州文化首都運動では、EU域外からも参加を呼び掛ける方針が打ち出された。これを受けて、ベル ギーのクラース外相(当時)が来日の際、日本政府にアーティストが欧州文化首都のプログラムに参加するようになったのである。

 

Can Art Save the World ?

1992年春、打ち合わせのために、翌年の欧州文化首都に予定されているアントワープに出掛けた筆者を温かく迎えてくれたのは、「アントワープ 1993」組織委員会のエリック・アントニス委員長であった。アントニス氏はおもむろに、背後のポスターを振り返った。ピカソの名作「ゲルニカ」の絵をあしらったポスターで、「Can Art Save the World ?」という文字が大書されていた。当時はユーゴスラビアで内戦が激化している最中で、欧州各国のアーティストたちは連帯して、サラエボの芸術家支援活動に取り組んでいた。ポスターはそのキャンペーン用に作成したのだという。  アントニス氏はこう語った。「芸術で世界は救えないかもしれない。しかし、芸術なくして世界の繁栄はあり得ない。だから、欧州文化首都運動が、市民の一人ひとりが芸術を通して生きることを見つめ、考える機会になればと私は願っているのだ」。物静かな口調で語る彼の言葉は、景気回復の掛け声だけで「再生」のビジョンを全く欠く日本からやってきた筆者の耳朶(じだ)を激しく打った。10年以上たった今日でも、一語一語が鮮やかに記憶によみがえるほど衝撃的な出会いだった。  当時のアントワープは地場産業がすっかり衰退し、栄光の面影が色あせた斜陽の街だった。アントニス氏はじめアントワープ1993組織委員会のメンバーは、欧州文化首都開催を契機に歴史あるこの街を再生する決意を固めていた。17世紀の巨匠、ルーベンスに代表される過去の芸術遺産を再評価するだけでなく、現代のアートを振興するさまざまな文化施策と取り組み、その結果、その後の10年間で芸術文化を原動力にした「都市再生」が着実に進行した。  顕著な一例はファッション界の盛況だ。創立して30年になる王立ファッション・アカデミーから優れた人材が輩出され、世界的なデザイナーが相次いで誕生した。街のあちこちに人気デザイナーのショップが出現し、外国人の顧客が急増した。2002年には旧銀行を改造したファッションの一大拠点が誕生した。教育機関である王立アカデミー、文化活動の場であるモード美術館、そして産業としてのファッション振興に取り組む野心的な機関「フランダース・ファッション・インスティテュート」が同居する一大施設である。  日本では従来、営利的、商業的な文化活動を白眼視する傾向が強かったが、昨今は財政難から、公私を問わず美術館が営業活動に大慌てな様子が目立つ。このひょう変ぶりは、公共性とは何かという視点の掘り下げが欠けていることを裏書きしているのではないか。ファッションの分野で「教育」「文化」そして「産業」という三つの領域の振興を三位一体の協力態勢で進めるアントワープの大胆な試みは、日本の地方文化振興の将来にとって示唆に富む事例として検討されてしかるべきだと思う。

街が丸ごと美術館

欧州新幹線「ユーロスター」でロンドンやパリから1~2時間、ブリュッセルからはわずか40分という交通の要衝に、リールという街がある。イタリアの歴史的港湾都市ジェノバとともに、2004年の欧州文化首都に選ばれた北フランスの中枢都市である。綿織物、食品産業、鉄工業を擁して北フランスの大産業都市として栄えたこの都市も、20世紀後半には深刻な不況による工場閉鎖に直面し、衰退の一途をたどった。市当局が中央・地方の政治家を総動員して国際新幹線専用の中央駅を街の中心に建設し、必死でユーロスターの誘致を図ったのも、街の衰退に歯止めをかけることがねらいだった。  そのねらいは的中し、新交通ネットワークの完成で外国人ツーリストが急増、ホテルの新設・改造で街に活気がよみがえった。30%に迫る勢いだった失業率も一けた台に減り、3年前にトヨタ自動車㈱がこの地域における工場建設に乗り出すなど、世界的企業の進出も相次いでいる。この機を逃さず、社会党政権の元閣僚であるオブリ氏を市長に頂く市当局は、EUに働き掛けて欧州文化首都の指定を獲得し、芸術文化による大胆な都市改造計画を打ち出した。

vol_8_04-01-1

 

 

 

欧州文化首都リールの広場に出現したシャングリラのチューリップ(草間彌生作)

2004年の欧州文化首都リールのシンボルとして、街の中心、ミッテラン広場に高さ8mのカラフルで異様なチューリップが出現した(写真1)。日本の現代造形作家、草間彌生氏の作品だ。市立美術館では「フラワー・パワー」をテーマにモダンアートの国際展も開催された。花の生命力が欧州文化首都「リール2004」を体現している。100人を超える日本人アーティストも、1年にわたって繰り広げられるさまざまなプログラムに招聘(しょうへい)された。従来の伝統的な西洋文化には見られない斬新(ざんしん)で精細な彼らのアート感覚が、このリールで開花したのである。欧州文化首都リール2004の要請にこたえ、EU・ジャパンフェスト日本委員会は最大限の協力態勢を敷いた。開幕に際し、オブリ市長が「日本人アーティストが私たちの欧州文化首都を盛り上げてくれた」と語ったのも社交辞令だけではなかったようだ。プログラムを充実させるためには、アーティストの国籍は問われない。芸術文化は国境を超えるものなのである。  リールでの欧州文化首都運動のもう一つの特徴は、周辺の多数の自治体や隣国ベルギーの諸都市にも積極的に働き掛け、行政、市民、アーティスト、美術館、劇場の間に強力で壮大な連帯のネットワークをつくり上げていることだ。リールでもフランドルの巨匠ルーベンスの大規模な展覧会が開催されたが、隣国のアントワープからだけでなく、全欧州の美術館から貸し出された数多くのルーベンスの傑作が集まった。毎年繰り返される欧州文化首都運動により、欧州各地の芸術文化関係者の間に厚い信頼のネットワークができ上がっている。  先に「芸術文化による大胆な都市改造計画」といったが、別にリールで新しい「ハコモノ」(劇場、ホールなどの施設)建設のラッシュが起こったわけではない。老朽化した中央郵便局の建物はわずかに手を入れただけでそのまま展示会場に変身した。また「メゾン・フォリ」と名付けられた文化施設が相次いで誕生したが、そのほとんどは過去の繊維工場や倉庫を改造したもので、それらはアーティストの創作の場となり、子どもから大人までが自由にワークショップを楽しむ拠点として、再活用されるようになったのである。これらの施設は今後、地域の文化活動の場として次代に受け継がれていくであろう。  欧州文化首都開催のための予算は約101億円である。その多くが、プログラムづくりや中長期の視点に立ったシステムの構築といった、ソフトに振り向けられているのが大きな特徴といえる。それと比較すると、日本の文化関連予算ではハコモノ予算が突出しているのが明白だ。戦後、日本における文化関連のハコモノ建設には実に累計で7兆円の税金が投入されている。日本ではソフトに対する予算に対しては官民一様に極めて厳しいが、天文学的なハードの予算に対してはなぜか容認する風潮がある。英国の公共ホールの数は日本の50分の1であり、サッカー・ワールドカップにフランス政府が支出した設備建設費は、4年後の開催地となった日本の28分の1である200億円にすぎなかった。ソフト重視の欧州とハード重視の日本、この違いが積み重ねられている現実に、われわれは今こそ向き合うことが求められている。  欧州文化首都運動は、一見日本の文化庁の主導により都道府県が持ち回りで毎年開催する「国民文化祭」に似たシステムに見える。日本では役所が行事開催期間だけに焦点を当て、プログラム立案から運営まで大手広告代理店に丸投げで依頼することが多い。一方、欧州文化首都運動では多くの市民ボランティアの参加を得て、地元の組織委員会が専門家を登用し、長期的ビジョンの下、責任を持って運営にあたるなど、彼我の差は歴然としている。  欧州文化首都運動をきっかけに、特に衰退する周縁部の地方都市でも、街や地域の生き残りをかけた、芸術文化による「街おこし」が相次いでいる。周縁部の再生こそ、拡大EUの成否を左右するカギである。

周縁から輝きを取り戻す欧州

1980年代前半に、英国のグラスゴーは文化による都市再生に取り組み、国立美術館を新設して、重工業都市からスコットランドの文化の中心地へと鮮やかな転身を図った。同市は90年に欧州文化首都に選ばれ、これが雇用の呼び水になって経済的な都市再生に成功した。多くの中小都市が欧州文化首都の指定を受け、それぞれの文化遺産を生かしながら、住民を巻き込んだ積極的な文化事業を展開して国際的にも高い評価を獲得した。欧州の中心から遠い周縁部のこれらの都市が相次いで、文化を軸とする創造的都市(クリエイティブシティ)としての再生を目指すようになった。その好例として国際的に大いに喧伝(けんでん)された都市がある。スペイン・バスク地方のビルバオだ。かつての重工業の拠点、ビルバオは 1970~80年代にアジアとの国際競争に敗れ、環境破壊と失業率30%の経済不況で人が住める環境ではない街というレッテルを張られた。どん底の不況下では環境改善を図る余地がない。  そこで同市は「経済と環境」を一挙に立て直す大胆な都市再生戦略の採択を決意する。かつての産業用の鉄道操作場跡地に世界的に有名なニューヨークのグッゲンハイム術館をコレクションごと誘致したのである。  米国人建築家F・ゲーリ設計の「タコの足」と呼ばれるこの異形の新美術館は、1997年のオープンとともに国際的に大評判になり、「グッゲンハイム効果」といわれる目覚ましい経済波及効果をもたらした。市当局はこの成功に勇気付けられて2200人収容可能な大国際会議場を2000年にオープンし、欧州の一流のオペラやコンサートを連続開催して「クリエイティブシティ・ビルバオ」の名を世界にアピールしようと懸命だ。ただし、ビルバオがグッゲンハイム美術館ビルバオ設立に費やした予算は約150億円で、東京国際フォーラムの建築予算1680億円に比べると極めて少額である。無数のハコモノの活用どころか建物の維持さえ困難な日本の実態にわれわれがもう一度目を向け、芸術創造と都市再生の当事者としての感覚で真剣に考える必要に迫られていることは確かだ。  もう一つの例を挙げる。大西洋に面したフランス西部の港湾都市であるナントも、独自の文化政策でよみがえった。造船所の閉鎖で失業者がたむろし、ストのあらしに明け暮れた1980年代の大不況を克服した周縁地方都市として、全欧州の注目を集めている。市の年間予算の11%を投入する多彩な文化事業の成功で人口減少に歯止めが掛かり、「市の文化度」の向上がメディアで全国に伝えられた。その結果、ル・モンド紙のアンケートで、2003年にはナントはフランスで最も住んでみたい都市の第1位にランクされた。大手企業がナントに移転してくるなど、目覚ましい経済効果も挙げている。  ここに紹介した「文化による街おこし」の成功例はいずれも、深刻な不況と失業に見舞われ「衰退か、再生か」の厳しい二者択一を迫られて文化に街の未来をかけた苦渋の選択の「たまもの」なのだ。従来の開発型行政の行き詰まり、既存産業の衰退、財政悪化、人口減少などに直面して、いずれの都市も思い切った再生計画を真剣に検討せざるを得ず、住民の「生活の質」を重視し、芸術文化を政策に取り入れることに踏み切ったわけである。欧州では地方分権の拡大で、ハイカルチャー(上位文化)中心の従来の国家主導型文化政策が後退を余儀なくされ、地域住民のニーズを反映した地方自治体独自の文化政策が勢いを得るようになった。文化のあり方が中央からのトップダウン方式から、住民参加の「文化民主主義」に移行しつつあることも、見逃せない重要な変化である。

vol_8_04-01-2

 

欧州文化首都リール2004開幕行事
「白い舞踏会」
約50万人の大群衆が詰め掛けた。
©LIGHT MOTIV

すさまじい住民参加の実例は、2004年の欧州文化首都リールでも見られた。オープニング当日、白い衣装を着けていればだれでも参加自由の「白い舞踏会」が開かれ、会場の市庁舎広場には約50万人の大群衆が殺到、身動きもできない盛況ぶりだった(写真2)。市当局の政治的な動員という、うがった見方も可能だが、解放感を満喫し踊り狂う老若男女の大群衆は、率直に心から催しを楽しみ、文化首都の事業を自らの体験として歓迎していたようである。05年の欧州文化首都であるアイルランドのコークでは、実行委員会が市民にプログラムの提案を呼び掛けたところ、たちまち2500を超えるアイデアが寄せられた。芸術文化は、定年退職後の楽しみに取っておくものでも、アクセサリー的な存在でもなく、日常生活の大切な営みであることをコーク市民は実感しているのである。

形がい化した「国際交流」から卒業しよう!

われわれ委員会の欧州各国における活動も、始まって10年以上が経過した。活動は常に日欧の共同作業という感覚だ。「国際交流」とは日本人だけが好んで使う言葉であり、「国際人」「国際化」同様、元来英語にそのような言葉は存在しない。日本の国技とされる相撲でさえ、今のチャンピオン(横綱)はモンゴル人である。われわれが日々出会う芸術について、その国籍が意識されることは皆無に近い。その質が高ければなおさらである。日本人の海外渡航が珍しかった時代である1972年に、外務省の外郭団体として「国際交流基金」が設立され、その後日本の「国際化」に大きな役割を果たしたことは周知の事実だ。それから、30年余りがたち、既に「国際交流」は過去の概念となった。今や年間2000万人近い日本人が海の向こうに渡る時代となり、隔世の感がある。

vol_8_04-01-3

 

 

ブルージュの中世の街並みに現代の風を吹き込んだ伊東豊雄作のパビリオン2002

この10年余りのEU・ジャパンフェスト日本委員会と欧州文化首都の協力関係に限っても、もはや芸術文化の活動に国籍を持ち込むこと自体に大きな意味はない。2002年の欧州文化首都ブルージュでは建築家の伊東豊雄氏が選ばれ、中世の街並みに風穴を開けるような感覚の超現代的なオブジェを設計し、高い評価を受けた(写真3)。街の空気を一変させたのである。その他、これまでに当委員会がサポートし、欧州文化首都で目覚ましい活躍ぶりを見せた日本人アーティストを挙げれば、枚挙にいとまがない。ただ、彼らは日本人としてではなく、アーティストとして認められたのである。ここに前世紀型の「国際交流」にいまだ固執する日本の大きな課題がある。  フランス外務省が1922年に立ち上げたフランス芸術活動協会(AFAA)は、いわば日本の国際交流基金に当たる組織であるが、中身については大きな違いがある。目的を達成するために、フランス外務省は省庁の枠を超えて文化省の協力が不可欠とした。文字どおり、世界を舞台にしたAFAAの80年余の活動の蓄積は、フランスを揺るぎない文化大国に押し上げた。ピカソ、ミロ、シャガールといったフランスで活躍した巨匠たちはフランス人ではなかったが、これも芸術の質が優先された結果なのである。ゲーテも言っているように「愛国的文化、愛国的学問は存在しない。文化や学問はいずれも世界共有の財産であり、今現在の刺激を基に、未来へと発展していく」ものなのだ。日本でも「芸術」にかかわる各省庁による省益の壁を超えた取り組みが求められている。  欧州の都市における文化活動も「グローバルに考え、ローカルに実施する」時代に入っていることが明白である。日本では文化の地方分権も、政府や自治体の自主的な文化政策も一向に根付きそうもない。従来、この国の文化の中心だった東京や大阪のような大都市でも、財政悪化から芸術文化の切り捨てが進んでいる。巨額のハコモノの建設を国民は容認した一方で、今や行政の現場では少額の文化予算でさえも削除されつつある。それは「木を見て、森を見ず」とか「羹(あつもの)に懲りて、膾(なます)を吹く」といった次元をはるかに超え深刻である。われわれも「周縁部の都市から文化による街おこしを進めて、日本列島全体の文化再生を目指そう」と提言したいところだが、そうした期待に反する状況悪化が当分続きそうだ。  しかし、こうした閉塞(へいそく)状態突破を目指して、せんえつのそしりを省みず直言を試みることにする。いわゆる「国際交流」や「芸術文化」に携わる政府機関、政府系団体、また公立美術館等では、役員、幹部の多くは官僚出身者で占められている。芸術文化の専門家や経験者がさい配を振るうという欧州型の組織は皆無に近い。国境を越えて芸術文化が自由に往来するグローバル化の時代だというのに、日本では「国際交流」なるものが相変わらず続けられているのである。時には「国際交流」というフィルターを通すことにより、新たに国境をつくっていくことさえある。  われわれの委員会では欧州文化首都の準備を進める過程から、多くのプログラム担当者を欧州から日本に招聘してきた。彼らは日本ではいまだ評価の定まっていないアーティストたちの活動に対しても、どん欲にそして真摯(しんし)に目を向ける。日本で発掘したアーティストによって自分たちの街の芸術文化に新風を吹き込むことが、彼らの大事な使命の一つである。彼らが日本のアートの現場にわれわれ日本人以上に通暁しているのにはいつも驚嘆させられる。世界の地域と地域、都市同士が大陸と大洋を越え、直接、共同作業を進行することによって、新しい芸術文化の創造的な活動のあり方が着実に変容し、進化しつつあるのである。国威発揚と国益追求という従来の「国際交流」から脱却し、21世紀の世界にふさわしい、どのような文化戦略を打ち出していくのか、日本は今、正念場に立たされている。「交流」という言葉は単に人や物の往来を表しているのにすぎない。問題はその交流をいかに掘り下げていくかということなのである。  日本の文化状況は、制度上の問題を抱えているものの、見方を変えれば多くの可能性を秘めている。数百万人を超える中高年層が和歌や俳句の短詩型文学や日曜絵描き、カルチャーセンター通いに励んでいる。ピアノの保有台数も世界で群を抜いて多い。ある意味では日本ほど芸術文化の日常化が普及している国は、世界でも珍しい。音楽、演劇、造形芸術などの分野を志す青少年も少なくないが、優秀な素質の持ち主が国内の芸術環境のひどさに愛想を尽かして、海外に長期留学してしまう傾向が目立つ。  国や地方公共団体、そして社会全体がこうした人々の文化への関心・ニーズに真剣に耳を傾けていくことが大切だ。行政サイドに当面、有能な文化のプロデューサーが不在でも、こうした領域での市民の潜在的ニーズに敏感であれば、市民の中から優れた人材を発掘することも可能である。彼らの自主裁量・自主管理を大幅に認める度量さえ持ち合わせれば、民間の間から自発的な文化活動が芽を吹き、育つ可能性は十分ある。筆者は欧州文化首都運動に約10年間、日本の民間ボランティアとして参加してきた。限られたささやかな経験だが、この「欧州再学習」から筆者なりに多くのことを学んだ。その中でも最大の収穫は「日本の閉塞状況脱出のカギは、アート振興と文化創造のラディカルな発想の転換にかかっている」という確信を新たにすることができたことだと思う。

求められる「高いビジョンを持った市民の意識」

スペインの古いことわざに「旅人よ、道は歩いてつくるものだ、初めからそこにあるのではない」という言葉がある。欧州統合は幾多の困難と挫折の道程ではあったが、それを支えたのは政治の強いリーダーシップと、市民の意識の高さという両輪であった。  新しい時代の「都市」を語るとき、市民の存在は大きい。古代ギリシャでは、市民の身分の条件として、自立した政治的信念を有することが求められた。われわれ日本人は政府、財界に不満はぶつけるものの納税者、有権者としての義務、権利の行使を忘れているのではないか。改革に際して、市民が他者に丸投げし続けることは、もはや日本人には許されていないことも厳然たる事実である。さまざまな危機に際して沈黙することは、それに手を貸すことに等しい。日本の経済界では、昨今「企業の社会的責任」(CSR:Cooperate Social Responsibility)という考え方が次第に浸透しつつある。しかし「都市の未来」を考えるとき、同じく「市民の社会的責任」(CSR:Citizen Social Responsibility)を忘れてはならない。市民の自立した意識がなくては、多くの正論をいくら重ねても世の中は何も変わらない。社会を構成するのは結局一人ひとりの人間なのだから。

グローバル化時代における芸術文化の役割

グローバル化により国民国家の地位は後退し始め、新しい時代はNGOの台頭を促した。経済、環境、そして芸術文化などが国を超えた地球全体の課題となりつつあることからすれば、当然のすう勢だ。政府と異なり、NGOは何の手続きも経ずに成立する組織である。しかしグローバル化時代において、NGOには、その求められる役割とともに、自律性、自浄能力、社会的責任も同時に飛躍的に増大する。このことは芸術文化の分野でのNGOの活動においても同じである。  グローバル化がもたらす経済格差の問題も忘れてはならない。当代フランスを代表する論客ジャック・アタリ氏によれば、米国では1979年来、資産増加分の97%がわずか200万人の最富裕層に集中し、現在彼らが米国資産の40%を保有している。また最富裕国の平均所得は、1820年には最貧困国の3倍だったが、1993年には72倍になった。最貧困層の10億人がすべての富を集めても、最富裕層の100人分の富にしかならない。市場経済は事の是非にかかわらず、無限の発展を求めていくものだ。グローバル化は貧富の格差の拡大を伴う。  経済発展や技術革新は、数字や数量的指標で表すことが可能だ。しかし、人間の愛情、喜び、怒り、苦悩、希望など数値で計測できない価値が一方には存在していることを忘れてはならない。繰り返しになるが、欧州文化首都アントワープの委員長を務めたアントニス氏は「市民一人ひとりが芸術を通して生きることを見つめ、考える機会になれば」との思いを自分の活動に込めた。人間らしく生きるために、物質的繁栄以外にわれわれは何を求めているのか。経済的繁栄の先に、どのような自画像を描くのか、そこに芸術文化の存在はあるのかが今問われている。グローバル化は地域の活性化を伴って初めて意味がある。  本稿の結びとして、ナント再生の立役者ジャン=ルイ・ボナン氏の言葉を引用する。  「私たちはアートと文化の活動家でありたいと思う。政治的な活動家ではないが、私たちの活動というのはアートのため、ヒューマニズムのため、人類の発展のための活動なのだと思う。これは一つの戦いなのです」 今回の執筆にあたり、当委員会のプログラムディレクターである根本長兵衛氏に多くのアドバイスを頂きました。心より感謝いたします。

▲Page Top