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欧州文化首都における日本関連プログラムを支援しています

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[Vol.73] 第22回 EU・ジャパンフェスト 事務局からの報告 「私たちは今どんな時代に生きているのか。」

「第22回EU・ジャパンフェスト」(2014年1月~2015年3月)を終了し、事務局長・古木修治が総括として文章を寄せました。

古木 修治

事務局長

はじめに

前世紀末、私たちは、徐々に押し寄せるグローバル化の波を感じながら、漠然とした不安を抱いていた。そのイメージをアメリカ化と重ね、また均質化へと向かうのではないかという危惧を駆りたてていた。20世紀は国民国家による国際社会の時代であり、民族ごとの文明があり、地域ごとに分かれて成立していたのだ。「文明の衝突」という警鐘も鳴らされた。

かつて、反グローバリズムという運動がおこり、国際機関への攻撃を繰り返していたが、近年それも静まってきた。決してその思想が間違っていたということではないだろう。しかし、グローバル化は一部の国際機関やグループが仕掛けてできる流れではない。人類が初めて体験するほどの地殻変動のようなものである。従って、私たちはその巨大な潮流に抗うことの無意味さを本能的に悟ったのではないか。そのなかで、どのように生きてゆくかを考え、実行してゆくことが人間らしい生き方なのではないか。

21世紀に入り、市場のグローバル化が急速に拡大し、情報ネットワークが地球規模で広がっている。その結果、史上初めて人類は世界の文明を共有する時代に突入しはじめている。文化や経済は、国家による制約や保護がある。しかし、時と場合によっては、するりと国境を抜け出しグローバルな活動をはじめる。工業製品に生産国は問われることはないし、同様に芸術家も国籍は問われない。重視されるのはクオリティなのだ。

「正義」にはいくつもの定義がある。日本政府にとっての定義、海外の政府にとっての定義。誰が何の目的で主張するかによって、「正義」とは何通りも存在する。しかし、「感動」には、一つの定義しかない。国籍も人種も宗教の違いもなく、あらゆるものを超越して起こる根源的で人間的なものだ。

私たちが、この23年間、関わってきた欧州文化首都は、人間が織りなす「感動」に関わる活動だ。現在、EU28ヶ国には世界中の民族が移り住み、市民として新しい欧州を作っている。数万人の規模まで対象にすると、欧州で使用されている言語は、260を数えるという。日本語もそのなかに含まれる。
EUは欧州統合に向けて、文化の多様性を特に重んじてきた。現在では、「欧州文化首都」に参加するアーティストの国籍は100ヶ国を超える。「欧州文化首都」もまたグローバルな活動へと発展したのである。

欧州文化首都リガ 「人間の鎖」からはじまった

2014年1月18日。リガは極寒の朝を迎えた。町中に多くの市民が繰り出している。この日、欧州文化首都開幕を飾る重要な行事「本を愛する人間の鎖」に参加するためだ。ラトビアには500年の書籍印刷の歴史があり、書籍はこの国の文化の中で大切に受け継がれてきた。しかし、痛みを覚えるほどの寒さのなか、何が市民をこの行事に駆り立てたのだろう。人々は手をつないで立ち並び、「人間の鎖」は旧図書館から新しく完成した国立図書館までつながった。やがて、本のリレーが始まった。旧図書館の蔵書は、数キロの沿道を何万人もの市民の手によって一冊ずつ手渡しで運ばれ、新図書館の書棚に収められていった。外気温はマイナス20度。凍てつく寒さをものともせずに、黙々と作業は続けられた。参加した市民の表情は、誇りと安寧に満ちた笑顔があふれていた。その背景にはどんな歴史があったのだろうか。世界からやってきた人々は、この行事に込められたリガ市民の思いに触れることになったのである。

「人間の鎖」にはリガ市民の忘れがたい過去があった。それは、東西冷戦末期に遡る1989年8月23日のこと。長きに渡ったソビエトの過酷な占領体制に立ち向かい行われた再独立運動である。この日、エストニアのタリンからラトビアのリガ、そして、リトアニアのヴィリニュスまでの600キロに渡って、思いを決した220万人もの市民は、手と手をつなぎ「人間の鎖」を形成した。沿道には、デモ鎮圧のために出動した戦車が立ち並び、参加者たちにとって死を覚悟しての行動だった。一触即発のにらみ合いが続いた。その緊迫が極限に達した時、突然、数台の二人乗りのバイク集団が現れ、両者の間を疾走した。そして、後部に乗っていた若者たちが国旗を翻すと、それに呼応するように沿道の市民たちから大歓声があがり、それぞれに背後に隠し持っていた各国の国旗を一斉に振りはじめた。何万本という国旗の乱舞のなか、やがて、民族の歌の大合唱が始まった。この熱狂、怒り、願いの前にもはや戦車の隊列、自動小銃を手にした警備隊たちは、なす術もなかった。山は動いた。この怒涛のうねりによって、バルト三国は再独立へと向かうのであった。彼らは、「人間の鎖」によって、一滴の血も流すことなく、悲願であった再独立を手にしたことから、それは、「歌の革命」とも呼ばれる。

「歌の革命」から25年。2014年は、第一次世界大戦から100年目にあたる。前世紀は「戦争の世紀」と歴史に刻まれたが、二つの世界大戦はいずれも欧州での紛争が引き金となった。その悪夢は、現代に再び姿を現した。前年のウクライナ政変から発展したクリミア危機は、ロシアと国境を接する小国ラトビアにとって、大きな脅威となっていたことは想像に難くない。
「世界平和は、それを脅かす危険に見合った創造的努力がなければ、守ることはできない。」これは、1950年欧州統合へ向けて、時のフランス外相ロベール・シューマンが行った演説の一節である。芸術文化が世界平和にどれだけ貢献できるのか。非力ではあるかもしれないが、決して無力であってはならない。それだけに、欧州文化首都リガには、世代、民族を超え、世界中の人間同士を文化でつなぐ重要な役割が託されていた。

7月には、ロシアやウクライナを含む世界73ヶ国480もの合唱団が参加した「世界合唱祭」が開催された。そのなかに、日本の所沢フィーニュ少年少女合唱団の姿もあった。彼らは、2010年の欧州文化首都ペーチ(ハンガリー)で行われた国際青少年音楽祭に参加。その後、日本国内において海外からの合唱団受け入れを積極的に行ってきた。そして、前年に日本を訪問した欧州文化首都リガのディアナ・チヴル実行委員長による世界合唱祭への熱い参加呼びかけに、団員達は「歌で世界の人々を幸せにする」という思いを膨らませていった。

出発を前に、彼らの通う学校を訪問したノルマンス・ペンケ駐日ラトビア大使を待ち受けていたのは、ラトビア国旗やラトビア語で書かれた歓迎の横断幕、そして子供たちの豊かな笑顔だった。ペンケ大使は、全校生徒にラトビアの文化や歴史について熱く語りかけた。合唱団を送り出す地元でも、それまでなじみの薄かったラトビアが身近な存在となっていた。確かにラトビアはロシアを挟んで日本の隣国なのだ。団員たちは、世界合唱祭に参加する意義を予感し始めていたようだった。

「世界合唱祭」は2年に一度、世界の5大陸を持ち回りで開催する。「歌の革命」の歴史が示すように、「歌」と運命を共にしてきたこの国で、欧州文化首都の年に合わせて開催することの意味は深い。2万人の合唱団員が一堂にステージに登壇するという壮大なフィナーレは、地響きのように観客のすべてを感動の渦に巻き込んだ。

所沢フィーニュ少年少女合唱団が体験したことは、それだけではなかった。期間中、リガ市民の家庭に滞在し、家族の一員としてラトビアの生活文化を体験しながら、老人ホームや養護施設など、様々な場面で歌を披露した。教会では、震災復興を願う「あなたはどこに」を披露したが、日本語の分からない聴衆が涙を流して聴いている姿に、「歌」がもつ底知れない力を感じ、胸にこみ上げるものがあったと団員たちは報告した。これらの体験によって、ラトビアのみならず欧州、世界各国と日本の若者たちが、着実に希望と共通の未来に向けて歩み始めたことを実感させた。
来年には、ラトビアの合唱団による日本訪問計画も始まっている。双方の合唱団同士が直接話し合い実現に向かっている。「歌」によって、人と人、国と国の垣根を越えて、世界市民との共通の意識を持ち始めたのである。それこそ欧州文化首都リガが残した意義深い遺産であろう。

さて、他にも多くのプログラムに日本のアーティストや団体が日本から招聘された。その一つに「国際ペーパーオブジェフェスティバル」がある。リガの主催者が目を向けたのは、洋紙に比べて格段に繊維が長く薄くとも強靭で独特の風合いをもつ美濃、阿波、越前などの伝統和紙。芸術的観点から、和紙を素材として創造される斬新な作品が注目されたことは、伝統文化に新たな光を当て、和紙を世界的な存在に高めた。また、デジタルアートやコンテンポラリーダンスといった比較的歴史の浅い現代アートの分野では、池田亮司、コンタクト・ゴンゾ、梅田宏明、室伏鴻など、世界を舞台に活躍するアーティストたちがリガの市民を魅了した。グローバル化のなかで問われるのは、アーティストの国籍ではなく、その質の高さであることを再確認した。
一方、私たちがこれまで日本文化として位置付けてきたものが、海を渡り、時代とともに進化し、すでに世界共有の存在となっていることが改めて示された。盆栽や合気道は、欧州で注目され始めてから半世紀近くが経過した。当初は、表面的なとらえ方から始まったものの、次第に哲学的な側面に焦点が当てられるようになり、現代では、精神文化として重要な価値が認められている。その事実を私たち日本人が今こそ理解し、受け入れることが大切だと考えさせられた。

欧州文化首都ウメオ “サーミ”によって実現した欧州文化首都

ウメオは、北緯64度北極圏に近いスウェーデンの都市である。もう一つの欧州文化首都リガからは北へ約800キロに位置している。
2014年の開催に向けて、スウェーデン国内の欧州文化首都選考は波乱に満ちた展開となった。ストックホルムに次ぐ大都市イエテボリが本命視されていたが、先端企業や芸術文化の振興が著しいマルメ、そして北欧最古の大学で知られる学芸都市ウプサラなども有力と目されていた。しかし、最終的には大方の予想が覆され、スウェーデン11番目の小都市ウメオが選出された。その大きな要因にウメオが歴史的に北方先住民族サーミの居住地域であったことが挙げられる。

文化の多様性や地方分権の重視は、欧州統合における基本的な指針であり、欧州文化首都選考に際しても重要な選考基準とされたのだ。ウメオ市内のヴェステルボッテン県立博物館では、遊牧でトナカイを育てていたサーミ人の暮らしが紹介されており、2000年にはウメオ大学にサーミ文化を守り、研究する中心的機関「サーミ研究センター」が創設されている。

一方、世界には6,000から7,000の言語があるとされているが、グローバル化が進むなか、英語やスペイン語など広範囲で通用する言語のエネルギーに押され、使用人口が極めて少ない言語は近い将来の消滅が危惧されている。世界中でその危機を少しでも食い止めようと様々な努力がなされているが、サーミ語も消滅危機言語の一つである。

同じ北方少数民族として、サーミは日本のアイヌとも交流があった。欧州文化首都開催を契機にサーミからアイヌ関係者へ音楽、言語、デザインなどの分野で共同の取り組みが呼び掛けられた。また、ラトビアのリガでも、サーミ文化展を開催しており、欧州文化首都のパートナー都市であるウメオの関係者と協力しアイヌとの交流が始まった。2014年4月にはウメオよりサーミ文化活動のリーダーであるミカエル・リンドブラッド氏が、前年にもリガでアイヌの音楽や舞踊を組み入れる活動を行っている舞踏家のシモーナ・オリンスカ氏が来日し、両者とも今後の文化交流の模索を始めることができた。国情や取り巻く環境の違いもあり、前途には厳しいものがあるが、欧州文化首都が文化の多様性に目を向け、グローバルな連帯への可能性を提示したことは意義深い。

スウェーデンにおける欧州文化首都は、1998年のストックホルムについで2回目となる。前回の開催では、スウェーデンで初めての歌舞伎公演が実現した。単に日本の伝統文化の紹介という次元ではなく、世界を代表する舞台芸術の一つとして位置付けられたことは、その後の歌舞伎の世界各国での展開に大きな弾みとなった。そのほか、建築家の妹島和世、コンテンポラリーダンスの勅使川原三郎、ダムタイプ、和太鼓「倭」など、ストックホルムでの経験を生かし、その活躍を世界的なものへと発展させたアーティストも数多い。様々な文化やアートが国境を越え、そして新天地を見つけてゆくことに欧州文化首都は大きく貢献した。

今回、ウメオでの開催に際し、ラーシュ・ヴァリエ前駐日スウェーデン大使の尽力は大きな貢献を果たした。ヴァリエ大使は、外交官の傍ら長い間俳人として活動を展開し、俳句に関する著作も20を超える。3月の文学フェスティバルでは、「俳句」についての講演会を行い、反響を呼んだ。また、2013年、準備の為に来日した欧州文化首都の関係者と日本のアーティストをつなぐ機会を積極的に支援していただいた。ウメオの夏の音楽フェスティバル「UXU」や、ギターミュージアムと日本のミュージシャンとの交流、アートプロジェクト「北斎からマンガまで」、フードフェスティバルにおける和食プログラムなど、欧州文化首都以降の継続発展が期待できる活動が数多く生まれた。

また、ウメオと長い交流関係にある石川県小松市の協力を得て、実現したデザイン企業家の黒崎氏による苔庭プロジェクト、公募から選ばれた大矢りか氏の滞在制作や、マルチメディアアーティストの瀬山洋子氏の質の高い活動など、この地域の文化の展開に大きな刺激を与えたことは間違いない。ウメオは、デザインの分野でも先端的な活動が盛んだ。欧州文化首都の開催を契機として、グローバルな活動がさらに展開されることが期待されている。

“固有の文化”をめぐって考えること

冒頭でも触れたが、グローバル化が進むと経済や文化は、するりと国境を越えて世界へ飛び出してゆく。政治や外交の役割は国境を守ることであり、どんなにグローバル化が進もうと、国民国家はある一定の役割を担い続けることが求められている。一方、アーティストは、人間と人間の間に存在する壁を崩し、境界線を無くしてゆくことも大事な使命であり、いずれの存在も必要だ。
私が欧州文化首都に関わって23年。この間、多くの「日本文化」が、グローバルな存在へと進化した。わたしたち日本人が「日本文化」と考えている盆栽、俳句をはじめ多くの「日本文化」は、「グローバルな文化」へと発展していることを見逃してはならない。
1982年から16年間に渡りスペイン首相を務めたゴンザレス氏は、激務をぬって盆栽に取り組んでいたことで知られる。在任中、日本の首相を公邸に招いた際、彼は真っ先に自らの手による盆栽の数々を披露した。その数は、400を超えていたそうだ。一方、盆栽の素養がなかった日本の首相は、逆にゴンザレス氏から滔々と盆栽に関する講釈を受けたという。
俳句も同様だ。戦後、東西陣営対立のなかで、国連事務総長として国際和平に奔走した偉大な外交官と知られるスウェーデンの外交官、ハマーショルド氏は苦悩の日々を俳句に綴っていた。また、初代EU大統領を務め、俳人としても知られているファン・ロンパイ元ベルギー首相は、「日本は俳句の発祥の地であるが、俳句はいまや世界の哲学である」と語っている。

一方、かつて西洋文化とされたクラシック音楽、バレエ、油絵などが日本に入ってきたのは19世末であるが、21世紀の今、すでに「日本の文化」として定着している。

あえて定義するならば、

「日本文化」とは、かつて日本で発展し今や世界で評価されている文化。
「日本の文化」とは、ルーツは欧州や中国であれ、現代の日本に存在するすべての文化となる。

ゲーテは、「愛国的な文化は存在しない。いずれもが世界の財産である。」と説いた。まさに文化の本質をついている言葉である。

「文化」をめぐる危うさ

第一次大戦中に「相対性理論」を発表したアインシュタインは、こんな台詞を残している。「もし、私の理論が正しいと証明されたら、ドイツ人は私のことをドイツ人と呼ぶ。しかし、フランス人は私をユダヤ人と呼ぶに違いない。ところで、もし、それが間違っていることがわかれば、ドイツ人は私をユダヤ人と呼ぶであろうし、フランス人は私をドイツ人と呼ぶだろう。」

グローバル化に抗って、自国の伝統的な文化・風習・言語・民族を重視し、他国からの文化・風習・言語・民族の流入を嫌悪する風潮が存在することは事実で、それがヘイトスピーチといった他民族排斥などの活動につながってゆく。グローバル化の時代に、自国の利益のみを重視した文化外交、文化発信は、決して相手国のためにも自国のためにもならないのは明白だ。現代において、固定観念に基づいた文化外交には危うさを感じる。国家が文化に関わるとすれば、あらゆる文化をグローバルな視点で文化の多様性を重視するという立ち位置が求められる。相手を尊重することと自分に誇りを持つことは両立できるのだ。

終わりに

ここでは、私は人間だ。
ここでは、私はそれであってよい。
ゲーテ「ファウスト」より

グローバルというマクロの見地で世の中を俯瞰することと同様に、ローカルというミクロの領域で自分の足元をしっかりと見つめ、行動することの両方が大切だ。情報化が進むと、いつのまにか世の中で起こっている出来事に対し批判ばかりしている自分に気づいて恥ずかしくなることがある。いつから私は評論家になったのか。社会を批判することは、忘れてはならないが、いつの間にか「社会」の定義が自分に身近なものではなくなり、遠く手の届かないものとなってはいないかと自戒する。

限られた人生にあって、近いところにいる仲間、遠くとも心を通わせる仲間とともに、たとえ非力でも、遠い先を見据えて、小さなことであっても着実に一つずつ実行してゆきたい。評論家ではなく行動者でありたい。次の世代のために何ができるか考え、それを着実に実行してゆきたい。

2014年の活動を締めくくるにあたり、多くの皆様に感謝を捧げ、私の報告といたします。

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